スポンサー収入で活動する「プロのアマチュア選手」という新スタイルを打ち立てた岡澤セオン選手、パリ五輪へ
ボクシングにはプロとアマチュアがあり、ルールや採点方法が大きく異なる。多くの選手がアマチュアで実績を積みプロに転向していくが、岡澤セオン選手はスポンサー収入で活動する「プロのアマチュア選手」というボクシング界の新たなスタイルを築いている。
1995年、岡澤選手は山形県でガーナ出身の父と日本人の母の間に生まれた。「Olimpics.com」のサイトによれば、父が名付けたセオンの名は「偉大なる強さ」を持つエジプト神話のセトが由来だという。
岡澤選手が最初に熱中したスポーツはレスリングだ。小学1年生の時にはじめ、直ぐに大会で優勝するようになった。中学校を卒業するまでレスリングに明け暮れ、高校でも続けるつもりでいた。
しかし入学先にはレスリング部がなく、陸上かラグビーに転向を考えた。そんな時不良風の「メチャメチャ怖い1学年年上の先輩」にボクシング部に入れと迫られ、すっかりおびえて入部してしまう。ちなみに、その先輩からは今でもかわいがってもらっているという。『読売新聞』が伝えた。
入部するとボクシングに夢中となり、高校3年生の時には国体で5位入賞を果たすまでになっていた。岡澤選手は中央大学進学後もボクシングを続け、4年生の時に国体で準優勝した。
「NHKニュース」によれば、大学卒業後はボクシングを引退するつもりで、民間企業への就職も内定していた岡澤選手。しかし、ボクサーになる夢をあきらめきれず、鹿児島県体育協会に所属しながら選手としてプレーし続ける道を選んだという。
2018年に全日本選手権で初優勝を飾った。2019年にはアジア選手権で日本人として36年ぶりとなるウェルター級の銀メダルを獲得し、東京五輪の切符を手にした。
しかし、コロナ渦になり東京五輪の1年延期が決定。その間はフィジカルトレーニングに明け暮れた。『デイリースポーツ』紙によれば、私生活では18種類のスパイスを組み合わせる本格的なカレーレシピを探求し、作るたびに「カレーノート」に改善点を書き込んでいたという。
画像:Instagram, @made.in.yamagata
『スポーツ報知』紙によれば、岡澤選手は活動拠点である鹿児島県内を駆け回ってスポンサー探しを行い、その結果20社近くの企業からスポンサー支援を受けることになった。そのおかげで、将来は開業したいと思うほど得意なバターチキンカレーの具材もレベルアップし、より高価なものを使えるようになったという。
画像:Instagram, @made.in.yamagata
ボクシングのアマチュアはトップ選手でも大学卒業後の受け皿が少なく、スポンサー支援で活動する「プロのアマチュア」となることで岡澤選手は「子どもたちが夢を持ってアマチュアでボクシングを続けられるようにしていきたい」としている。『サンケイスポーツ』紙が報じた。
そして1年遅れで開催された東京五輪では、メダルを期待されていたものの2回戦で敗退してしまった。『南日本新聞』によれば、準備万端で臨んだつもりだったが自身のスタイルを信じ切ることができず、迷いからパンチに切れを欠き、最終的に判定負けを喫してしまったという。
五輪の悔しさをバネに、2021年の世界選手権では金メダルを獲得した。「NHKニュース」によれば、「オリンピックからの期間は本当につらかったが、すごく練習を頑張ってきた。勝てて良かった」と涙ながらに語ったという。
パリ五輪で実施階級が減ることを受け、岡澤選手は東京五輪より2キロ、世界選手権より4キロ重い71キロに階級を変えた。その影響でスランプに陥るが、原点回帰を意識し「五輪の借りは五輪でしか返せない」と奮起したという。『南日本新聞』が報じた。
2023年、中国で開催されたアジア大会ボクシング男子ライトミドル級で、岡澤選手は金メダルを獲得した。これにより東京五輪に続き2大会連続での五輪代表が決定した。
『日本経済新聞』によれば、岡澤選手はこう自身を分析している:「ビビりの調子乗りです。でも、この性格がボクシングに生きている。パンチをもらわない距離で闘えば、誰にも負けない自信があります」
パンチをよけるディフェンス技術に長けていることで有名な岡澤選手。この夏に開催されるパリ五輪でも大いにビビってパンチをよけ、調子に乗って日本にメダルをもたらしてくれることになるだろう。