オリンピックで大怪我を負ったアスリートたち:無念の棄権から驚異の復活まで
オリンピックは、32競技で世界トップクラスのアスリートたちが栄光を求め、自らの身体を限界まで追い込むスポーツの祭典だ。輝かしい記録やメダル争いが注目される一方、スポーツ史上最も悲痛な怪我が起こる舞台にもなってきた。運悪く負傷してしまったアスリートたちを見ていこう。
2012年ロンドンオリンピックの跳馬決勝で、ドイツの体操選手ジャニーン・ベルガーは着地の際に肘の脱臼という重傷を負った。ベルガーは治療のために棄権を余儀なくされた。オリンピック離脱を強いられただけでなく、その怪我はベルガーの体操選手としてのキャリアに長期にわたって影響を及ぼした。
ジャニーン・ベルガーは2015年、独紙『アウクスブルガー・アルゲマイネ』にこう語った。「跳馬は完璧さが求められるスポーツです。ほんの少しの誤差や、ちょっとしたミスがすべてを台無しにしてしまうこともあるんです」ベルガーは怪我以来、現在に至るまでオリンピック復帰を果たすことができていない。
1996年のアトランタオリンピック。女子体操競技の団体決勝で、ケリー・ストラッグは跳馬の1度目の演技で足首を負傷してしまう。しかし、その怪我からオリンピック史上に残る奇跡の名シーンが生まれることになる。
怪我を負いながらケリー・ストラッグは2回目の跳馬に挑み、見事成功。米国チームに金メダルをもたらした。片足で着地を決め、その後倒れ込んだケリーの姿は大きな感動を巻き起こした。
米スポーツ専門チャンネル『ESPN』のインタビューで、ケリー・ストラッグは2016年に次のように振り返っている。「そのときのことはあまり覚えていませんが、着地の瞬間に特別なことは何もしていないと思います。跳馬では着地を決める必要があり、それに集中するだけなんです」コメントからもケリーのストイックさが垣間見える。
1992年バルセロナオリンピックの400メートル準決勝。レースの途中でデレク・レドモンドはハムストリングを断裂し、トラックに倒れこんでしまう。しかし、デレクはここから驚くべき執念と忍耐力を見せる。
激痛に堪えながらデレクは立ち上がり、よろよろとゴールラインに向かって歩き始めた。その瞬間、父親のジムがコースに駆け込み我が子を支えた。ジムとデレクへの米紙『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューによれば、そのときジムは「そんなに頑張らなくてもいい」とデレクに言ったという。それでも、デレクは最後までレースを走り切ることを望んだ。「それなら、一緒に完走しよう」とジムは答えたそうだ。
デレク・レドモンドが父親に支えられ、フィニッシュラインを切った瞬間は、オリンピック史上最も象徴的で感動的なシーンの一つとなった。
写真の左から3人目に位置する体操選手の藤本俊は、1976年のモントリオールオリンピックで並外れた精神力を示した。ゆか競技中に膝の半月板を痛めたが、団体戦で競技を続け、日本の金メダル獲得に貢献。藤本は2021年東京オリンピックのウェブサイトで、「審判や誰にも怪我をしていると思われたくなかったので、そのことを悟られないように努めました」と語った。
フランスの体操選手サミール・アイト・サイードは、2016年リオオリンピックの跳馬競技中に脚を骨折する大怪我を負った。見た目にもはっきり折れ曲がった脚は観客に衝撃を与え、本人にとっても失意のオリンピックとなってしまった。しかし、大怪我を負ったにも関わらず、サミールは並々ならぬ決意で競技に復帰することを誓う。
「手術も上手くいったし、悲観はしてないよ。競技はまだ終わっていないから、会場に戻って友人を応援することもできるしね」とサミールは手術後にソーシャルメディアに投稿した動画で語っている。その後、復帰を果たし、2020年東京オリンピックに出場。2024年のパリ五輪への出場資格も得て、金メダル獲得を狙っている。
イギリスのマラソン選手のポーラ・ラドクリフは、2004年のアテネオリンピックに出場。優勝候補と目されていた。しかしレース中に足を負傷し、棄権を余儀なくされてしまう。
競技を続けることができず、涙を流しながら縁石に座り込むラドクリフの姿は、オリンピック史上最も悲劇的な光景の一つである。長年準備を重ね、トレーニングに打ち込んできたかかわらず、ラドクリフのオリンピックはそこで幕を降ろした。
彼女はその瞬間を、2020年に英陸上専門誌『アスレチックス・ウィークリー』に対して語っている。「心の中で何度もその瞬間を思い出しました。当時は諦め癖があると言われ、途中棄権によって批判されたことを覚えています。自分自身を守ろうとする気持ちが働いたのかもしれません」
ポーラ・ラドクリフはこのように付け加えた。「完走できそうにないことは明らかだったし、その日に身体をぼろぼろにしてしまうわけにはいきませんでした。そうと分かってはいても、受けた批判から立ち直るのはとても大変だったんです」
中国のハードル選手、劉翔は母国で開催された2008年北京オリンピックの110メートルハードルで金メダル最有力候補だった。しかし、アキレス腱の怪我のため、予選を棄権。この怪我は劉翔のオリンピック出場の夢を打ち砕いただけでなく、中国13億人の国民を落胆させることになった。
「私はいつもあの事故を『美しい偶然』と表現しています」と劉翔は2024年に世界陸上競技連盟に語った。「110メートルハードルと60メートルハードルは非常に激しい競技で、事故はいつでも起こり得ます。2008年に負った怪我から復帰するために、厳しいトレーニングに取り組まなければなりませんでした。しかし、結果的に2011年の世界選手権で銀メダルを獲得できたので、怪我にも大きな意味があったと思っています」
競技中に起きた怪我ではないものの、1994年リレハンメル冬季オリンピックの直前にフィギュアスケート選手ナンシー・ケリガンが負った膝の怪我は、オリンピック史上最も衝撃的な事件の一つとなった。
写真右のケリガンは、なんと左に映るライバル選手のトーニャ・ハーディングの元夫が雇った男に襲われ、膝に重傷を負ってしまったのだ。しかし、ケリガンは襲撃の1ヶ月後、不屈の精神でオリンピック銀メダルを獲得した。
ケリガンはそれ以降も、この事件について詳細に語ることを避けている。米紙『ケネベック・ジャーナル』の2014年の報道によると、ケリガンは記者に次のように語っている。「もう前に進むべき時です。人生をより良いものにするために、過ちから学ぶチャンスを与えるべきだと思います」