15歳でレアル・マドリード入団、栄光のキャリアを築いたサミュエル・エトー
アフリカサッカーは、世界を牽引するヨーロッパや南米と比較すると発展途上かもしれない。しかし、これまでに数多くのスター選手がアフリカの人々に夢を与えてきたことは間違いない。そして、サミュエル・エトーはそのようなスター選手のなかでもひときわ輝きを放っている。
カメルーン出身のストライカーであるサミュエル・エトーは、ヨーロッパの各クラブで長期にわたって活躍し、代表でも素晴らしい結果を出した。こうしてエトーは、史上最高のストライカーの一人として名を残し、アフリカの人々からも大きな尊敬を寄せられることになった。
15歳のときにスペインの名門レアル・マドリードにスカウトされ、エトーは1996年に初めてヨーロッパの土を踏んだ。翌シーズンにはトップチームに加わったものの、同じスペインのクラブであるレガネス、エスパニョール、マジョルカに3年連続でレンタル移籍することになる。
レンタル移籍3年目に所属したマジョルカはエトーの完全移籍での獲得を決断。こうしてエトーは、2000年から2004年までの4シーズンにわたってマジョルカでプレーすることになった。この時期にエトーは計60ゴール以上を記録し、ストライカーとしての才能を開花させる。
2000年には当時まだ19歳ながら、アフリカネイションズカップでカメルーン代表の優勝に貢献。さらに2年後の2002年にも同大会で優勝し、自身もゴールを挙げながらチーム全体を牽引した。
アフリカネイションズカップの優勝に加えて、エトーは2000年のシドニーオリンピックでカメルーンに金メダルをもたらし、その名声を確固たるものにする。
この活躍が世界中の強豪クラブからの関心を惹き、マジョルカ移籍から4年後の2004年、エトーはかつて所属したレアル・マドリードの宿命のライバルであるFCバルセロナと契約する。こうしてスペインの名門クラブで新たなキャリアを歩き出す。
バルセロナに移籍して2シーズンで、エトーはスペインでのリーグ2連覇とUEFAチャンピオンズリーグでの優勝を経験する。
さらにエトーは、2009年にバルセロナでスペインリーグ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグの3冠を達成する。特にチャンピオンズリーグでは、マンチェスター・ユナイテッドとの決勝戦でゴールを決め、ヨーロッパ制覇に大きく貢献した。
シーズン終了後、当時バルセロナを率いていた名将ジョゼップ・グアルディオラ監督との確執もあり、ズラタン・イブラヒモビッチとのトレードでイタリアの強豪インテル・ミラノに移籍した。インテルでは2010年、バイエルン・ミュンヘンとの決勝で勝利し、自身3度目となるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を果たした。
インテルには2年間在籍し、エトーはロシアのアンジ・マカチカラに移籍する。その後、イングランドのチェルシーやエヴァートン、イタリアのサンプドリアを渡り歩き、一定の活躍を果たした。キャリア終盤はトルコのアンタルヤスポル、コンヤスポルでプレーし、2019年にカタールで現役を引退した。
エトーは引退後も注目の的であり続けている。プーマやビール会社のギネスなどのCMにも多数出演してきた。
アフリカサッカー界でもエトーは、長年にわたって大きな影響力を発揮している。サッカーやスポーツの大きなイベントに頻繁に登場し、テレビやインターネットでのインタビューにも積極的に答えている。
母国カメルーンのレジェンドであるエトーは、2021年にカメルーンサッカー連盟の会長に選出された。それ以来、カメルーンのサッカーを発展させるべく精力的に活動している。
しかし、2022年のカタール・ワールドカップでは、アルジェリア人ユーチューバーに対する暴力行為が撮影され、大きな騒動になった。同ユーチューバーから執拗な挑発を受けたとされているが、エトーの行動は物議を醸すことになってしまった。
現役時代から激しい気性によって、ときに批判を浴びてきたが、サミュエル・エトーは、間違いなくFCバルセロナの黄金期を支えた世界有数のフォワードであり、アフリカサッカー界に進歩をもたらした偉大なレジェンドである。今後も様々なかたちでアフリカサッカーの発展に貢献していくことだろう。