アメリカテニス界の伝説:ジム・クーリエの輝かしい経歴を振り返る
1990年代にテニス界を席巻したアメリカのビッグ4、アンドレ・アガシ、ジム・クーリエ、ピート・サンプラス、マイケル・チャン。その中で、クーリエは独特の存在感を見せた選手だった。その輝かしい経歴を振り返ろう。
名門ジュニアテニストーナメントの1つであるオレンジボウル決勝にわずか14歳で進出したクーリエは、ニック・ボロテリー・テニスアカデミーに入学。多くのプロテニス選手を輩出してきた由緒あるアカデミーで、テニスに打ち込む日々を過ごす。
同アカデミーでの特訓が功を奏し、1986年から2年連続でオレンジボウル優勝を果たす。クーリエは翌年プロに転向し、1989年の全仏オープン3回戦でアガシを破るなど、徐々に頭角を現わしはじめた。
クーリエのプレースタイルと言えば力強いサーブやフォアハンド、そして優れたボレー技術だろう。それに加え、高い身体能力と練習へのひたむきな姿勢も持ち合わせていたのだ。
1989年にスイス・インドアで初優勝を果たしてから、メジャー大会で大躍進を続けたクーリエ。特筆すべきは1991年の全仏オープンだろう。シュテファン・エドバーグとミヒャエル・シュティッヒを破り、初のグランドスラム決勝に出場。同じく米国出身のアガシと対戦することとなる。
クーリエとアガシは雨の降るパリのクレーコートで、5セットに渡る試合を繰り広げ、最終的にクーリエが4大大会初優勝の栄冠を手にすることとなった。
その後もクーリエの勢いは衰えず、キャリアの絶頂期を迎えた。1992年の全豪オープン決勝ではスウェーデンのステファン・エドバーグを破り初優勝。クーリエは喜びのあまり、メルボルンでヤラ川に飛び込んだそうだ。同年2月には男子テニス世界ランキング1位を獲得。アメリカ人ではジョン・マッケンロー以来の快挙となった。
1991年から1993年が、クーリエにとってキャリアの全盛期と言えるだろう。1992年には全豪オープンと全仏オープンで4大大会2連勝を達成。さらに、グランドスラム決勝にも3度の出場を果たしている。
しかし、その全盛期も長くは続かなかった。クーリエにとって最後の4大大会の決勝となったのは1993年のウィンブルドン。ピート・サンプラスに敗れ、準優勝に終わったのだ。
クーリエのモチベーションは下降し続け、2000年の世界ランキングは67位。その後、現役引退を表明した。「尊敬する方にこう言われたことがあるんです。『朝目覚めた時にテニスが上手くなりたいと思えなくなったら、それは引退すべきタイミングだ』そんな風に感じる日が、今年はほとんどだったんです」とクーリエは英紙『インディペンデント』に語った。
「オフシーズンもなく、今まで12年以上テニスに打ち込んできました。他の選手よりも引退の時期が早いのは、そのせいかもしれませんね。体力の限界を感じたんです」とクーリエは付け加えた。
テニス選手としてのキャリアは短命だったが、通算23回のシングルス優勝と男子テニス世界ランキング1位に通算58週在位という輝かしい功績を残し、惜しまれつつ現役を引退することとなった。
引退後も「テニス・チャンネル」や「NBCスポーツ」など、複数の米テニスチャンネルで解説者として登場し、コート上でのインタビューでも人気を博している。
2010年10月、自身も2度優勝経験を持つ男子テニス国別対抗戦、デビスカップの米国代表新監督に就任。クーリエは2018年にチームを去ったが、アメリカテニス界に大きく貢献したと言えるだろう。
ここでクーリエのプライベートにも焦点を当てていこう。2010年に元テニス選手のスザンナ・リングマンと結婚し、その後一人息子のケランをもうけている。
2005年には国際テニス殿堂入りを果たし、改めてクーリエの功績が認められることとなった。その全盛期は短かったが、伝説のテニス選手の一人として人々の記憶に残り続けることだろう。