サンパウロのレティシア・ブフォーニ:スケートボーディングの女王
レティシア・ブフォーニはブラジル出身のプロスケートボーダーである。その高いスキルと競技スケートボード界における業績で、国際的な知名度を得ている。
レティシア・ブフォーニは「エックスゲームズ」の金メダリストに3度なったことがあり、ストリートリーグ・スケートボーディング・ワールドツアーで女性として初の優勝を果たした。類まれな力量と大舞台での冷静さが、おそらく彼女を当代最高の女性スケートボーダーにしているのだろう。
彼女は『The Body Issue』(雑誌『ESPN The Magazine』の特別版として年に一度刊行され、アスリートのヌード、セミヌード特集が組まれる)にも登場しており、スケートボーディングの主要ブランドのいくつかと広告契約を結んでいる。とはいえ基本的には本業のスケートボードに大きな情熱を傾けている。
ブフォーニは慈善活動家でもある。チャリティ団体と連携し、恵まれない地区に住む人々のもとにスケートボーディングの活気を伝える活動を国際的に展開している。ブフォーニは女性スケートボーダーのロールモデルであり、ブフォーニに感化されて多くの女性がそのスポーツを始めている。スケートボーディングはいまのところ男性優勢の業界なのだ。
ブフォーニは1993年4月13日にサンパウロで生まれた。スケボーを始めたのは9歳のときで、しぶる祖母を説きふせてスケートボードを買ってもらった。「明けても暮れても道でスケートボードをしていた。コンピュータもスマートフォンもなかったからね。周りの子たちはみんなスケボーをやり始めて、だから私もそれにならった」と、ブフォーニはインタビューで語っている。
ブラジルの道路はとりたてて舗装がよいとか、質のいいアスファルトが使われているというわけではない。むしろその逆である。サンパウロ界隈でスケボーをするのはちょっとした蛮勇の行為であり、ヘマをすると血を見た。平坦でないレッジ(縁石)、こぶだらけの路面、油断のならない側溝、不意にでくわす穴ぼこ。どこをとっても理想のスケートボード環境とは言いがたかった。
「スケートボーディングをやめさせようと、父が私のスケートボードを折ったこともある。私は9歳のときから近所の男の子にまじって滑っていたけれど、男の子たちは10人くらいで女の子は私ひとりだけだったから、それで父は頭にきたのね。父は私の目の前でボードを叩き折った」と、ブフォーニは『Thrasher Magazine』に語っている。
のちに父は考えを改め、娘の類まれな才能を認めた。14歳のとき、ブフォーニは年上の友人たちと連れ立ってアメリカに移住した。ハリウッド・ハイスクールに通ったが、欠席つづきでそのまま学校をやめた。
2007年、ブフォーニが14歳のとき、初めて「エックスゲームズ」の出場権を得てロサンゼルスへ飛び立った。それは彼女のスケーティング・キャリアにおいてとても重要な瞬間だった。その大会で、女性スケーターの草分けであるエリック・スティーマーなどから強い刺激を受けたのだ。
レティシア・ブフォーニはスケートボードの国際団体(WCS)によって、2010年から2013年かけて4年連続No.1の女性ストリートスケートボーダーにランクされた。ブフォーニは「WCS最多勝利者」としてギネス世界記録にも認定されている(2017年認定)。
2018年、『フォーブス』はブフォーニを国際スポーツにおける最もパワフルな女性に選び、2018年の年間賞を与えた。彼女は『フォーブス・ブラジル』の「世界を変える30歳未満の人物」のリストにも名前が入った。その世界的な影響力は疑いようがなく、彼女は未来の女性スケーターたちにとって目標とすべき存在となっている。
ブフォーニはスケートボーディングの分野における刺激的な軌跡によって、世界でもっとも知られ、最も影響力のある女性アスリートの一人になった。彼女はブラジルの粗い道路環境と少ないチャンスをものともせず、今はブラジルの未来のスケーターの成長を支える土台づくりに助力している。
世界最高の女性プロスケーターとなった彼女は、しかし自身の育った街並みを忘れることはなく、その夢の実現がどんなに困難であったかを覚えている。ブフォーニはたびたび故郷に立ち返り、今日にいたるまで理想的なロールモデルでありつづけている。彼女にはインスタグラム、フェイスブック、ツイッター合わせてのべ540万人のフォロワーがいる。
ブフォーニはいま、IOC承認のローラースポーツ統括団体であるワールドスケートのアスリート代表として活動している。そして今でも、サンパウロでスケートボーディングをはじめた9歳のころと同じパワーとパッションを燃やして滑っているのだ。