スポーツ史を代表する強烈な抗議パフォーマンスとは
スポーツの場におけるさまざまな抗議パフォーマンスは、世界中の人々の注目を集めて議論を活性化させる役割を果たしてきた。そこで、スポーツ史に残るパワフルで象徴的な抗議活動について振り返ってみよう。
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確固とした信念を貫くという点で、モハメド・アリほど情熱的なアスリートは決して多くないだろう。史上最高のボクサーとして名を残したアリだが、現役時代は好き嫌いのはっきり分かれる選手だった。
1964年、ヘビー級王者となった直後にイスラム教に改宗したり、黒人民族主義的な立場をとったりするなど、アリの行動は当時の米国でタブーとみなされかねなかったが、彼は決してひるまなかった。
アリが最も物議をかもしたのは、1967年4月に徴兵を拒否してベトナム戦争に抗議したときだろう。その結果、1967年6月に有罪判決を受け、5年間の懲役、1万ドルの罰金、3年間のボクシング禁止を言い渡されることとなった。
控訴審に訴えることで懲役刑は回避したアリだが、ボクシング禁止令によって莫大なファイトマネーばかりか、全盛期の3年間まで失ってしまったのだ。しかし、1970年にリングに復帰すると、実力で王座に返り咲いた。
カタールで開催されたFIFAワールドカップ2022。試合自体は素晴らしいものだったが、場外では様々な物議を醸すこととなった。
開催国となったカタールの人権状況に対する批判の声は、人権活動家や政治家、ジャーナリストばかりか、W杯に参加する選手たちからも挙がった。とりわけ、ドイツ代表チームは写真撮影の際に口を覆って主催者のFIFAに抗議の意を示した。
ドイツ代表の抗議は、ヨーロッパ7ヵ国の代表チームがレインボーのアームバンドを着用してLGBTQI+(性的マイノリティ)コミュニティとの連帯を示すことを禁じたFIFAの決定に対するものだ。これについてドイツ代表はTwitterで声明を発表、「政治的パフォーマンスにはあたりません。人権は妥協できるものではないのですから」とした。
さらに注目の的となったのは、イラン代表チームがイングランド戦で国歌斉唱の際に行った「沈黙の抗議」だろう。これは、ヒジャブを適切に着用していなかったとして逮捕された女性が急死した事件を発端に、イラン全土に拡大した大規模な反体制デモに呼応したものだ。
スポーツ史に残る印象的な抗議シーンといえば、メキシコシティー・オリンピックの陸上メダリストたちが表彰台で見せた黒人差別反対のポーズ「ブラックパワー・サリュート」だろう。この行動はあれから50年あまりが経った今でも、考察の対象となっている。
男子200メートルの決勝でそれぞれ1位と3位を獲得したアフリカ系米国人の短距離ランナー、トミー・スミスとジョン・カーロスは、靴を脱いで表彰台に上がり、黒手袋を付けた拳をあげて黒人差別反対を訴えたのだ。
ところが、この行動は政治的パフォーマンスを禁じるオリンピック憲章に反するとして、オリンピック委員会やメディア、政治家から大きな批判を浴びてしまう。2人はオリンピックからの永久追放を言い渡され、失意のまま帰国することとなった。また、2人に賛意を表明していた銀メダリストのピーター・ノーマン(オーストラリア)も、実質的にキャリアを失うことになってしまった。
ノーマンは「ブラックパワー・サリュート」こそしなかったものの、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト(OPHR)」のバッジをつけていたのだ。これによって社会的に排斥されたノーマンは、再びオリンピックに出場することはなかった。
女史テニス界を一変させた選手、ビリー・ジーン・キング。コート上では1961年から1979年にかけてウィンブルドンで20勝を挙げ、世界のトッププレーヤーとなっている。しかし、ビリーがもっとも大きな影響を残したのはコート外での努力によってだろう。
1973年6月、ビリーは女子テニス協会を組織し、優勝賞金が男女で異なるなら全米オープンを集団ボイコットすると発表。この運動によって、女子テニスの競技レベルは一気に高まることとなった。
さらに9月には、「性別間の戦い」で元男子チャンピオンのボビー・リッグスにストレート勝ちし、男女平等を証明することとなった。
一方、サポーターたちがスポーツの場で社会問題に抗議の意を示すこともある。このようなケースとしては、ラグビー南アフリカ代表「スプリングボクス」のニュージーランド遠征がとりわけ記憶に残るものとなっている。
ラグビーの遠征チームはニュージーランドの人々から熱烈な歓迎を受けるのが常だ。しかし、当時の南アフリカはアパルトヘイト政策を実施しており、遠征チームはこれに抗議するニュージーランド市民の反発に直面することとなったのだ。ニュージーランドではそもそも、数ヵ月前から南アフリカチームの遠征禁止を求める声が挙がっていた。
最終的にツアーは開催されたものの、試合の度に何千人ものデモ参加者が集結したため、治安部隊や警察を投入して選手の安全を確保しなくてはならなかったという。それにもかかわらず、数百人の暴徒がフェンスを破壊しフィールドになだれ込んだため、2試合がキャンセルされている。
しかし、この騒動を機にニュージーランドはアパルトヘイト反対の姿勢を固めた。ラグビーニュージーランド代表「オールブラックス」は1992年のアパルトヘイト撤廃まで、南アフリカ遠征を行なわなかったのだ。
1936年、ナチ党政権に抗議してボイコットする選手も多い中、ベルリンオリンピックに出場し、トラックで実力を見せつけて意思表示をしたのがジェシー・オーエンスだ。
アフリカ系米国人選手として、ヒトラー率いるナチ党が掲げたアーリア人種論を打ち砕く必要性を感じていたオーエンス。結局、金メダルを4つも獲得し、大会一番の活躍を見せることで己の立場を示すこととなった。この結果にヒトラーは激怒したと伝えられている。
最近のスポーツ界でもっともメディアの注目を集めた抗議パフォーマンスといえば、アメフト選手コリン・キャパニックによるものだろう。実際、キャパニックの名はフィールドでの活躍よりも、人権活動によって記憶されることになりそうだ。
国歌斉唱の際に片膝をつくというパフォーマンスを見せたサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのクォーターバック、コリン・キャパニック。シンプルなポーズに過ぎなかったが、米国ばかりか世界中で議論の的となり、メディアの反発やファンの暴動、ドナルド・トランプ元大統領による批判まで招くこととなったのだ。
しかし、もとはと言えば、アフリカ系米国人コミュニティが日々感じている人種差別に注目を集めるための抗議行動だった。
これによって人種差別問題に関する議論を提起したキャパニックだが、チームとの契約は不自然な形で打ち切られ、フリーエージェントとして不遇をかこつことになってしまった。