ネットフリックスでベッカムがテーマのドキュメンタリーが公開される:キャリアや見どころをチェック
伝説のサッカー選手、デヴィッド・ベッカムをテーマにしたドキュメンタリーシリーズがNetflixで公開された。好き嫌いの分かれる選手かもしれないが、ピッチの中でも外でもスターの輝きに満ちた選手であることは否定できない。今回公開されたシリーズではそんなベッカムの波乱万丈のキャリアを、感動と新事実を織り交ぜて紹介している。
ベッカムが実家を離れてマンチェスター・ユナイテッドFCの練習生となったのは15歳の時。息子を同チームの選手にするというのは父親の悲願だった。
そのベッカムが世界の注目を集めるようになったのは1996年、21歳の時のこと。センターラインの手前側から超ロングシュートを決めて一躍スポットライトを浴びた。
1995年、かつてはリヴァプールFCでならしたアラン・ハンセンが若手選手の多いマンチェスター・ユナイテッドを見て「子供ばかりで勝てるわけがない」と発言。けっきょくその年マンチェスター・ユナイテッドはリーグとFAカップの二冠を達成、まったく的外れな発言として歴史に残ってしまった。
1998-99シーズンにはチャンピオンズリーグ決勝でFCバイエルン・ミュンヘンを下して優勝、リーグ優勝とFAカップも合わせてトレブル(三冠)を達成した。
デヴィッドとヴィクトリアのカップルは、当時は毎日のように紙面を騒がせていた。スパイス・ガールズのメンバーでポッシュ・スパイスとも呼ばれたヴィクトリアとデヴィッド・ベッカムが付き合い始めたのはまさにお互いの全盛期のことだったからだ。ただし、クラブチームのマネージャーはベッカムが注目をあびることに不満だった。
カップルは国際的に有名になり、ベッカムやヴィクトリアの顔は世界中の看板や雑誌を飾った。監督のアレックス・ファーガソンやベッカムの両親は本業のサッカーが疎かになるのではと不安だったらしい。
転換点となったのが1998年のフランス・ワールドカップだった。決勝トーナメント一回戦、アルゼンチン戦でベッカムが退場処分となり、チームも敗退してしまう。敗戦は必ずしも彼だけの責任ではなかったのだが、批判はベッカムひとりに集中し、自身や家族に対する殺害予告まで受けてしまう。
たしかにベッカムは思慮の欠けた行動の結果レッドカードをもらってしまった。だが、試合はけっきょく延長のすえPK戦にもつれ込んだのだし、ベッカムはPK戦に参加していない。それでもマスコミは批判の矛先をベッカムへと誘導、その結果はすさまじいものだった。
ベッカムはその後数年間、イングランドの「ファン」から激しい攻撃を受けることになった。Netflixのドキュメンタリーで当時のことを語るベッカムからは、いまだに強い感情が垣間見える。だが、ベッカムを苦しませたのは自身が被った非難というよりも、家族が受けた扱いだった。
そんなベッカムへの評価が変わったのは2001年、翌年の日韓ワールドカップ本戦出場を賭けた欧州予選だった。予選でのギリシャ戦でベッカムはフリーキックから同点弾を決め、本戦出場への決定打となるなど大活躍したのだ。このゴールは多くの人の記憶に残っている。ベッカムは「ただみんなを喜ばせたかっただけです」と語っている。まさに有言実行というところ。
だが、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督はベッカムがサッカー以外で注目を集めていることが気に入らず、関係が悪化。ヴィクトリアと監督との間にも緊張関係が芽生え始め、事態はあまり好ましくない状態に陥りつつあった。
2003年、敗戦に怒ったファーガソン監督がシューズを蹴飛ばしたところ、それがちょうどベッカムの目にヒット。監督は偶然だと言うがベッカムは沈黙を守り、ふたりの関係はこれ以上なく冷え込んでしまった。
けっきょくクラブ側はベッカムの放出を決定、レアル・マドリードに移ることになり、「銀河系軍団」の一員に。マドリードはベッカムを熱狂的に迎えたが、ヴィクトリアに対しては歓迎ムードも陰りがちだった。
ベッカムは新しい環境でなかなか力を発揮できず、次々と監督が変わる状況も足を引っ張った。それもそのはずで、それまでベッカムはアレックス・ファーガソン監督ただひとりの下にしかついたことがなかったのに、レアル・マドリードでは7人もの監督が次々と交代していったのだ。
一連の監督の交代は2006年、ファビオ・カペッロの監督就任で終わりとなった。だが、カペッロは就任後しばらくしてからベッカムの起用を停止し、二度と出場させないと宣言。しかしその後に前言撤回し再起用、ベッカムも活躍しチームはリーグ優勝を果たした。後半の活躍もあってチームメイトも監督もベッカム残留を希望したが、起用を停止された時点でベッカムは移籍を決めており、アメリカのロサンゼルス・ギャラクシーへと移った。
こうしてベッカム一家はスペインでのファンの大騒ぎやパパラッチをあとにしてロサンゼルスへと移り、アメリカで平穏な暮らしを手にした。トム・クルーズが隣で食事をしているような場所では、ベッカムが特別に注目を集めるようなことはなかったのだ。
ヴィクトリアや子どもたちはロサンゼルスの陽光に包まれて幸せに暮らしていたが、ベッカム本人は辛い生活となったようだ。アメリカのサッカーは欧州とはまったく違い、このレベルのプレーを続けていると代表選出も怪しくなるということをベッカムもわかっていたのだ。
欧州のトップクラブでプレーし続けない限り、代表の座は守れないと言われたベッカムは2009年、アメリカリーグ最終盤にACミランへとレンタル移籍。アメリカでの生活にようやく慣れてきたところだったヴィクトリアはこの移籍をあまりこころよく思わなかったようだ。
ベッカムはアメリカ移住後、5年の間にロサンゼルス・ギャラクシーのリーグ優勝にも貢献したし、家族もその地を気に入って腰を落ち着けるつもりだった。それでも、ベッカムはアメリカでの生活に終止符を打ったのだった。
いよいよベッカムも選手生活に別れを告げ、長い海外生活も終わり、ついに家で家族とゆっくり過ごすかと思われた。だがそんな矢先に……
パリから声がかかった。パリ・サンジェルマンFCがベッカムの入団を希望、これはベッカムにとっても極めて魅力的なオファーだった。しかしここでも、妻のヴィクトリアはベッカムのパリ行きをあまり歓迎していなかった。SNS上でも多くの人がコメントしているが、今回公開されたドキュメンタリーはヴィクトリアが非常に率直な物言いをしているのが面白いところだ。
とはいえ、さすがのベッカムもそのシーズンを自分の現役生活最後のものとすることを決断。サッカーをこよなく愛するベッカムにとっては苦しい決断だったが、寄る年波には勝てない。
とはいえ、そこはベッカムのこと、引退しても大人しくはしていない。アメリカリーグのインテル・マイアミCFのオーナーとなり、クラブを単なる米サッカーチームから“グローバルブランド”へと成長させることを決めたのだ。
その夢を実現すべく、世界最高の選手の一人であるリオネル・メッシの獲得に動いた。ビッグスターをチームに迎え入れることで、インテル・マイアミのブランド力を高めるという戦略だ。ベッカム本人は選手として貢献できなくなったかもしれないが、マーケティングという手段で君臨し続けている。
デビッド・ベッカムはすべてを成し遂げた。イングランド、スペイン、アメリカ、フランスでリーグ優勝を果たし、代表チームのキャプテンを務め、チャンピオンズリーグでも優勝した。それと同時に、世界的セレブとしての人気も保ち続けている。これからインテル・マイアミでなにを成し遂げるのか、楽しみにしておこう。