フィギュアスケート浅田真央の輝かしい軌跡と新たな挑戦

2017年に引退した浅田真央
新たな挑戦
「結婚はちょっと無理かな」
かつてのライバルは結婚
空前のフィギアスケートブーム
国民的スター
オリンピックを目標にしたのは8歳の時
世界ジュニア選手権優勝
一躍時の人に
閉ざされたトリノオリンピックへの道
全日本選手権初優勝
世界選手権初優勝
ロシアの名コーチに師事
同い年の偉大なライバル
念願のオリンピック代表
バンクーバオリンピック
涙の銀メダル
史上初のアベック優勝
佐藤信夫コーチ
緊急帰国
悲しみを乗り越えて
まさかの16位
「伝説のフリー」
1年間の休養
現役引退
2017年に引退した浅田真央

フィギュアスケート競技で世界女王に輝いた浅田真央は2017年に引退を表明し、その後は2つのアイスショーの座長として全国ツアーを行ってきた。キャストの選出、振付、演出、楽曲、衣装、ツアーグッズに至るまで細部にわたってプロデュースし、全国66万人以上の観客に感動を届けている。

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新たな挑戦

33歳となる今年は、ショーのタイトルを『Everlasting33』とし、スケートリンクではなくステージ上に氷を張り、劇場空間でアイスショーを作り上げる新たな挑戦をしていた。このアイスショーは大成功を収め、ファンの強い要望により9月には全国56の映画館で上映されることになった。

画像:Instagram, @everlasting33_mao

「結婚はちょっと無理かな」

プライベートでは2023年に出演したフジテレビ『おかべろ』で、アイスショーの練習が忙しく交際相手と破局したことを告白。TBS系『A-Studio+』に出演時は「結婚はちょっと無理かなって正直思ってます」と結婚には向いていないと胸の内を明かした。

かつてのライバルは結婚

かつての強力なライバル、韓国のキム・ヨナは2022年に結婚を発表した。『読売新聞』によれば、お相手は韓国のボーカルグループ所属の声楽家で4歳年下のコ・ウリムで、二人はアイススケートショーで出会い、3年間の交際の後結婚を決めたという。

画像:Instagram, @yunakim

空前のフィギアスケートブーム

浅田真央は日本に空前のフィギュアスケートブームをもたらした人物だ。日本フィギュアスケート史上初めてグランプリシリーズ全7大会を制覇し、世界選手権で3回優勝、バンクーバーオリンピックでは銀メダルに輝いた。

画像:Instagram, @everlasting33_mao

国民的スター

輝かしい成績を積み重ねながら、愛らしい笑顔とエレガントなスケーティングで国民的スターの座へと駆け上がった。オリコンによる「好きなスポーツ選手ランキング」の女性部門で6回にわたり1位に輝き、中央調査社の「最も好きなスポーツ選手」2014年度版ではイチロー選手をおさえ1位に躍り出ている。

 

オリンピックを目標にしたのは8歳の時

Webサイト「子ども応援便り」に掲載されたインタビューによれば、5歳の時に姉の舞と一緒にスケートをはじめた。8歳の時に長野オリンピックでタラ・リピンスキーが金メダルを獲得したのを見て、いつかオリンピックに出たいと思うようになったという。

世界ジュニア選手権優勝

小学校6年生の頃には「天才少女」と呼ばれるようになる。2005年の世界ジュニア選手権で、大会史上初となるトリプルアクセルを決め初優勝すると、更に大きな注目を浴びるようになった。

一躍時の人に

翌シーズンにシニアのグランプリシリーズに初参戦。ポイント数上位者が参加する2005年グランプリファイナルで、無敗の世界女王イリーナ・スルツカヤを破り優勝を果たす。15歳の天才少女が世界の頂点に立ったことで、一躍時の人となった。

閉ざされたトリノオリンピックへの道

快挙を成し遂げたことで、浅田にトリノオリンピック出場への期待がよせられた。しかし、国際スケート連盟(ISU)が定めた年齢制限に87日足りず、出場資格を得ることができなかった。

全日本選手権初優勝

2006-07シーズン、NHK杯を歴代最高得点で優勝し、全日本選手権で初優勝を飾った。16歳で初出場となった世界選手権では、ショートプログラムで5位と出遅れるも、フリーで当時の歴代最高得点を叩き出し2位まで追い上げた。

世界選手権初優勝

2008年には17歳で世界選手権を制した。日本人選手としては5人目、そして最年少の世界女王となった。

ロシアの名コーチに師事

2008年からはタチアナ・タラソワコーチの元で表現力を強化した。タラソワは、ロシアのフィギュアスケート界の重鎮で、世界的な名コーチとして知られている。

同い年の偉大なライバル

当時のフィギュアスケート界は、浅田と韓国のキム・ヨナという強力な二選手のライバル関係で盛り上がっていた。同じ年に生まれた二人の天才少女は、幼い頃から競い合い、お互いにスポーツ選手の枠を超えた国民的スターとなっていた。

念願のオリンピック代表

2009-10シーズン、ジャンプの不調に苦しみながらも、全日本選手権で4連覇を達成。念願のオリンピック代表に選ばれた。

バンクーバオリンピック

しかしバンクーバーオリンピックを制したのは、パーフェクトな演技で圧倒的な強さをみせたキム・ヨナだった。浅田選手はオリンピック女子史上初となる、3度のトリプルアクセルを成功させるも銀メダルに終わる。

涙の銀メダル

『日刊スポーツ』紙によれば、演技終了後の会見で「価値ある銀メダルでは」と問われると、「悔しいです......演技自体は全然、満足していない」と言葉につまりながら、何度も涙をぬぐったという。

史上初のアベック優勝

悔しさをバネに臨んだ2010年の世界選手権で、浅田は2年ぶり2度目の世界女王に輝いた。高橋大輔も男子シングルを制し、日本フィギュアスケート史上初となるアベック優勝を果たした。

佐藤信夫コーチ

2010-11シーズンからは多くの教え子を世界の表彰台に立たせた名匠、佐藤信夫コーチに師事した。そして、次のソチオリンピックに向け、ジャンプの矯正に取り組むことになった。

緊急帰国

2011年、3季ぶりにグランプリファイナル出場を決めるも、以前から体調が悪かった浅田の母親が肝硬変で亡くなり緊急帰国することになった。仲良し母子として有名で、浅田の競技生活を支え続け、一番近くで応援していた存在だった。

悲しみを乗り越えて

浅田は母親の葬儀翌日から練習を再開し、全日本選手権に出場。悲しみを乗り越えて、2年ぶり5度目となる優勝を果たした。

まさかの16位

2014年、悲願の金メダルを目指し、再びオリンピックのリンクに立った。しかし、国民の期待を一身に背負って登場したソチオリンピックのショートプログラムでミスを連発し、まさかの16位となってしまう。

「伝説のフリー」

それでも浅田は諦めなかった。翌日のフリーで女子史上初となる全6種類のジャンプを見事に決め、自己ベストを更新し3位となったのだ。総合成績は6位だが、記録ではなく記憶に残る演技をした浅田に世界中から称賛が寄せられた。「伝説のフリー」と称され、世界中の人たちが感動の涙を流したのだ。

1年間の休養

集大成として臨んだソチオリンピックを終え、浅田は1年間の休養をとった。2015年に競技復帰するも、なかなか思うような成績を残せなかった。

現役引退

2017年、現役引退を表明。『サンケイスポーツ』紙によれば、430人の報道陣が詰めかけた引退会見は、デビッド・ベッカム擁するレアル・マドリードが来日した際に開かれた主力選手の会見とほぼ同じ規模だったという。

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