ブルース・ブラウンの『エンドレス・サマー』:サーフィンを変えたサーフィン映画
ブルース・ブラウンはアメリカの映画製作者で、サーフィンの熱狂的なファンだった。ゼンマイ式の16mm映画カメラ「ボレックス」を片手に、新しいサーフィンカルチャーを切り拓いていった。
ブルース・ブラウンは1937年サンフランシスコ生まれ。北カリフォルニアでサーフィンの誕生に立ち会い、まだ揺籃期にあったそのスポーツを映画用カメラで記録した。
彼の名前は、1964年制作のカルト的人気をほこる映画『エンドレス・サマー/終りなき夏』で最もよく知られている。2人の若いサーファー、マイク・ヒンソン、ロバート・オーガストが最高の波を求めて世界を回る映画である。
ブルース・ブラウンはマイクとロバートとともに、オーストラリアの海岸やニュージーランド、タヒチ、ハワイ、セネガル、ガーナ、ナイジェリア、南アフリカを訪れ、まだ手つかずのサーフィン・スポットを渡り歩いた。映画のナレーションが当時としては革命的で、とぼけたような茶目っ気や、洒落たユーモアが光っていた。
ブルース・ブラウンがカメラを回すようになったのは14歳のときで、8mmカメラで撮影したサーフィンの様子を母に見せるのが好きだった。彼はハイスクール卒業後の1950年代に海軍に入る。
海軍時代、ブラウンは潜水艦の乗組員としてハワイにいた。その休憩時間に彼は映画を撮りはじめる。この時に手がけた自主制作作品は、のちに南カリフォルニアの各地にある小さな会場で上映されることになる。
こうして映像制作を始めたブラウンは後年に『エンドレス・サマー』を制作、サーフィン映画の金字塔となった。ブルース・ブラウンはフィルムメイカーとして人々の記憶に刻まれ、彼が愛するスポーツ、つまりサーフィンの親善大使とみなされるようになる。彼は人生をサーフィンに捧げた。ただひたすらにすべてをカメラに収めようとし、サーファーたちの素顔にせまり、楽しみを分かち合おうとしたのだった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙は『エンドレス・サマー』を評して、「勇気ある作品。悪く言えば、向こうみず」と書いた。ブルース・ブラウンはとても苦労しながらアメリカじゅうの映画配給会社を説得して回ることになった。配給会社は、サーフィンにまつわる映画が海も浜辺もない地方に住む観客たちをどのくらい映画館に呼び込めるのか、はなはだ懐疑的だったのだ。
1960年代のハリウッドには、すでにサーフィンのブームは来ていた。だが、映画に出てくるサーファーたちは、サーフィンというスポーツの技術面にスポットを当てていた。そんななかブルース・ブラウンは、斬新なコンセプトによってサーフィンを血の通ったものにしたのである。
「ブルースは彼を除いて誰も達成できずにいることをやってのけた。彼はサーフィンをしない人に、ありのままのサーフィンを伝えることができたのだ」:こう語るのは『History of Surfing』の著者、マット・ワルショー氏である。
予算が5万ドルしかなかったので、ブルースはしょっちゅう経済的な問題にぶち当たることになった。だが、いざ映画が封切られてみると、興行収入は合計2千万ドルに上ったのだ。映画はどこで上映されても大ヒットになった。
霜に凍りついた看板の下で、封切りの夜にカンザス州人たちは長い行列を作った。体を暖めるために飛び跳ねながら、ロバート・オーガストとマイク・ヒンソンの冒険が大スクリーンで始まるのを今や遅しと待っていた」と、カンザス州の地方紙は書いている(1966年の記事)。
ニューヨークの配給会社たちはそれでもまだピンときていないようだった。だが、海から遠く離れたアメリカ内陸部で、それも真冬に映画がヒットを収めているのを見て、ブラウンはもう自分の力でやってしまおうと決めた。カリフォルニアの映画プロデューサーであるブルース・ブラウンは、マンハッタンの映画館をまるごとひとつ貸し切り、『エンドレス・サマー』を上映したのである。
この時の上映会はみごと大成功を収め、作品はカルチャーアイコンになった。たとえば、その映画ポスターのデザインは広く知られており、現在はニューヨーク近代美術館にも所蔵されている。
ブラウンはサーフィンの殿堂入りを果たし、映画『エンドレス・サマー』はアメリカ議会図書館のアメリカ国立フィルム登録簿に入った。このリストは、アメリカ合衆国にとって文化的・歴史的に重要な意味を持つ作品を選んだものである。
映画のあるシーンで、マイクとロバートは南アフリカのサン・フランシス岬の秘密のスポットに何気なく立ち寄る。そこはポイント・ブレイク(岬がある海岸に特有の左右に砕ける波)の立つ最高のサーフポイントとして1960年代に世界的に名を知られることになるのだが、映画の中では人っ子一人見当たらない。南アフリカの温かい太陽を浴びながらパーフェクトな波に乗る2人の姿は、多くの人の目にいまも焼き付いている。
『エンドレス・サマー』は単にサーフィン映画であるにとどまらず、世界中のサーフィン文化に大きな影響を与えた作品だった。ブルース・ブラウンが作り出した傑作は、若者たちをサーフィンに駆り立て続けている。
ブラウンは他にも2本のサーフィン映画を制作した。『Surfing Hollow Days』(1963年)と『Slippery When Wet』(1958年)である。サーフィン以外にも、モーターサイクルを主題にしたドキュメンタリー映画『On Any Sunday』(1971年)を制作している。
ブラウンの映画にはまず第一にサーフィン人気を高めるという役目があったが、その他にもさまざまなテーマ(たとえば環境保護か精神の充足にいたるまで)に触れている。
ブルース・ブラウンは2017年に、カリフォルニア州サンタバーバラの自宅で亡くなった。彼は計り知れないほどの努力と貢献を、映画づくりとサーフィンの両分野に遺していった。その伝説は永遠に語り継がれるだろう。
その死を悼み、サーフィン界の名士たちが彼への敬意を表した。ケリー・スレーターはSNSに次のように投稿している:「僕たちにサーフィンの世界を見せてくれてありがとう。あなたが言うとおり素晴らしい世界です。あなたのような人を、僕たちはもっとたくさん必要としています。向こうの世界で、いつかどこかでまた出会えますように」