ベルギーサッカー界の新星、ジュニオール・マランダとその早すぎる死
ベルギーサッカー界のホープとして将来を嘱望されていたジュニオール・マランダは、20歳の若さで悲劇的な死を遂げた。
(本稿ではとくに明記しない限りサッカー情報サイト「Transfermarkt」のデータを引用)
マランダはベルギーに生まれ、同国サッカー1部リーグのアンデルレヒトのユースチームで頭角を現した。その後フランス・リーグアンのリールU19に入団。ベルギーのユース代表としても活躍していたマランダは、やがて母国ベルギーに戻り、その才能を開花させた。
2012年7月、マランダはリーグアンを離れて当時ベルギー1部リーグに所属していたズルテ・ワレヘム(現在は2部)に移籍。そのフィジカルと技術の高さを生かして中盤で重要な役割を果たすことになった。
ズルテ・ワレヘムでの初シーズンには合計64試合に出場、7ゴールを決め、5アシストを記録した。
この2012ー13シーズン、ズルテ・ワレヘムはクラブ史上最高の成績にあたるリーグ準優勝を経験。トルガン・アザールとともにチームに大きく貢献したマランダは、国外のクラブからも注目を集めるようになった。
そして迎えた2013年夏の移籍市場でドイツのヴォルフスブルクがマランダを獲得、5年間の契約を交わした。そしてヴォルフスブルクからズルテ・ワレヘムにレンタル移籍される形でプレーを続けた。
マランダはこのシーズンにズルテ・ワレヘムでヨーロッパリーグ出場を果たす。イングランドのウィガン・アスレティックとのアウェー戦で2ゴールを決めるなど力を見せつけた結果、2014年1月にヴォルフスブルクに呼び戻された。
2014年2月8日、マランダはマインツ戦でついにヴォルフスブルクデビューを果たす。3月末に行われたヴェルダー・ブレーメンとのアウェー戦では初ゴールを決めて1-3の勝利に貢献。この年はシーズン後半からブンデスリーガに参加して7試合に出場、2ゴールを挙げる活躍を見せた。
次シーズンの2015年1月、マランダが所属するヴォルフスブルクは南アフリカで冬季キャンプを行う予定だった。マランダはキャンプに参加するため空港に向かったが、不幸にもその途中で還らぬ人となった。
その日、ヴォルフスブルク地方は暴雨と強風に見舞われていたという。ベルギーのスポーツチャンネル「スポルザ」によれば、マランダが同乗していた車は空港に向かう途中、猛スピードで道路わきの木に激突したという。
ベルギーの日刊紙『ニューズブラッド』によれば、事故当時マランダはシートベルトを着用しておらず、車から投げ出されてしまったとされる。
事故後に行われた裁判には、事故車を運転していたマランダの友人で同じくサッカー選手アントニー・ダルベルトが出廷。ベルギーの日刊紙『Het Laatste Nieuws』によれば、ダルベルトはスピード違反を認めたものの無罪が宣告され、ただし和解金4,000ユーロの支払いを命じられた。
マランダの死はサッカー界そして所属クラブであるヴォルフスブルクやファンに大きな悲しみをもたらした。葬儀は故郷ブリュッセルで執り行われ、当時ヴォルフスブルクでプレーしていたケヴィン・デ・ブライネらが参列した。
マランダの死を受けて、デ・ブライネはSNSのアカウントに次のように投稿した:「朝に友人の声を聴いて、同日の夕方にその訃報に接するなんてにわかには信じがたい。素晴らしい友人をあまりにも早く失ってしまった。友の安らかな眠りを祈る」
当時のヴォルフスブルクFW、ニクラス・ベントナーも追悼の意を表明:「選手としてはもちろん、人としても偉大な存在でした。私の思いと祈りはつねにあなたとあなたの家族と共にあります。友よ、あなたは永遠に人々の記憶に刻まれるでしょう」
ニクラス・ベントナーの言葉にある通り、欧州各国のクラブおよび母国代表チームで目覚ましい活躍をし、大きな期待を背負っていたマランダとそのあまりにも早い死をサッカー界は忘れることはないだろう。