ベルギー人ライダー、ワウテル・ウェイラントの栄光のキャリアと悲劇的な最期
世界中のライダーやファンに感動を与える自転車競技だが、ときに悲劇が起こり、スポーツ界に深い傷跡を残すこともある。ベルギーのワウテル・ウェイラントの場合もそうだろう。数々の大舞台で活躍を見せたアスリートだったが、レース中に悲劇的な最期を迎えることになってしまった。以下の記事では、競技情報はすべて自転車競技専門メディア「Pro Cycling Stats」および「Cycling Archives」から引用している。
ウェイラントは1984年9月27日、ベルギーのゲント生まれ。自転車チーム「クイックステップ・インナージェティック」でしばらく練習生として過ごし、2005年に同チームからプロデビューを果たした。
ウェイラントはスプリントで優れた能力を発揮した。GPブリック・スホット(2005年)での総合優勝、ツール・ド・ポローニュ(2006年)でのポイント賞、エネコ・ツアー、バロワーズ・ベルギー・ツアー、西フラーンデレン3日間レース(2007年)でのステージ優勝など、数々のタイトルを獲得している。
2008年、セミクラシックレースのノケル・クルスで優勝。同年4月にはヘント〜ウェヴェルヘムで3位に入賞し、素晴らしい成績を残した。
それに続き、2008年のブエルタ・ア・エスパーニャではステージ優勝を果たし、キャリア初のグランツールを獲得。ウェイラントは将来を嘱望されていた。
2009年にはル・サミンで優勝。西フラーンデレン3日間レースでは再びステージ優勝を果たし、ブエルタ・ア・エスパーニャでは2位になった。しかし、監督のパトリック・ルフェーブルは、ウェイランドのパフォーマンスを批判する。
「ウェイランドはノケル・クルスで一度優勝し、西フラーンデレン3日間レースとブエルタ・ア・エスパーニャで良い走りを見せた。しかし、その後は調子が上がっていないね」とルフェーブルは2010年にベルギーの雑誌『P Magazine』に語った。
ウェイラントは監督からの批判に結果で応えてみせる。2010年のジロ・デ・イタリアでは、見事第3ステージを制し、監督の予想が間違っていたことを証明した。
「今日ここで勝利することができて、本当に嬉しいです。2年前のブエルタ・ア・エスパーニャでの自分のパフォーマンスを取り戻すことが出来ました」とウェイラントは勝利後に「サイクリングニュース」に語った。シルキュイ・フランコ・ベルジュではステージ優勝を果たし、2010年シーズンを最高の形で終えた。
2010年シーズン終了後、クイックステップ・インナージェティックとの契約が終了し、移籍を決断。ウェイラントと契約を果たしたのはレオパード・トレックだった。
チームメイトのダニエーレ・ベンナーティが鎖骨骨折後、ウェイラントはチームのメインスプリンターとして2011年のジロ・デ・イタリアに参加し、ステージ優勝を狙うことになった。
ジロ・デ・イタリアの第3ステージで、ウェイラントを悲劇が襲う。ベルギーのスポーツ紙『スポルザ』が報じたところでは、ペダルが壁にぶつかりボッコ峠でクラッシュしたのだ。
レースの医療スタッフはウェイラントの蘇生を試みたが、残念ながら帰らぬ人となった。「前頭骨の損傷が原因でした」とジロ・デ・イタリアのレースドクター、ジョヴァンニ・トレディチ氏は当時報道陣に語った。
ウェイラントの訃報は、自転車競技界にとって衝撃的なニュースだった。ベルギーのスポーツ紙『スポルザ』によれば、108番のゼッケンをつけていたウェイラントに哀悼の念を表し、ジロ・デ・イタリアの主催者はその背番号を永久欠番にすることを決定したという。
ベルギーの新聞『ヘット・ニュースブラッド』によると、葬儀は2011年5月18日にベルギーのゲント市で行われた。多くのプロ自転車選手が、同僚でもあり友人でもあったウェイラントに別れを告げるために参列している。26歳という若さで、2011年9月には第一子が誕生する予定だったという。
ベルギーやジロ・デ・イタリア、そして自転車競技界全体にとって、ウェイラントは偉大なライダーである。その名は、いつまでも記憶に残り続けるだろう。