「バスケの神様」マイケル・ジョーダンの栄光と転落
NBAのサイトで「史上最高のバスケットボール選手」とされるマイケル・ジョーダン。しかし、コートの外では血の気の多すぎる性格や、家族を失いかけるほどのギャンブル依存で知られるようになってしまった。今回は、NBA屈指の名選手の栄枯盛衰を見てゆくことにしよう。
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1963年、ニューヨークのブルックリンでジェームズ・R・ジョーダン・シニアとデロリス・ジョーダンのもとに誕生したマイケル・ジョーダン。若い頃からバスケットボールに情熱を注いできたマイケルだが、地元のE・A・レイニー高校の選抜チームから弾かれてしまったエピソードをたびたび披露している。
高校の選抜チームからは弾かれてしまったマイケルだが、2年後にはマクドナルド・オール・アメリカンの選手となり、奨学金を得てノースカロライナ大学に進学することとなった。
マイケルが大学時代に最も活躍を見せたのは、全米大学体育協会が主催する1982年のトーナメントで、ジョージタウン戦の決勝点を挙げたことだろう。
1984年、マイケルはナショナル・バスケットボール・アソシエーション(NBA)のドラフトで、ハキーム・オラジュワン、サム・ボウイに続いてシカゴ・ブルズから3位で指名を受けることとなった。
シカゴ・ブルズ入団を果たしたその年に、 1試合平均28.2ポイント、6.5リバウンド、5.9アシストという記録を打ち立て、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
1985年、NBAオールスターゲームでも轟くようになっていたマイケルの評判を聞きつけ、スポーツ用品メーカー「ナイキ」が契約を締結。バスケットボール・シューズの定番となる「エア ジョーダン1」をリリースした。
その後の8年間、マイケルはバスケットの技術を新たなる高みへと押し上げていった。NBA最優秀選手賞に何度も選ばれたほか、クリーブランド・キャバリアーズと対戦したファイナルでは見事な決勝点を放ち、シカゴ・ブルズを1991年、1992年、1993年の3度にわたって優勝に導くという前人未踏の偉業を成し遂げた。
バスケットボール界の寵児として10年間にわたる活躍を見せたマイケル・ジョーダン。その一方で、スキャンダラスな私生活が徐々に明るみに出るようになる。
1993年、マイケルはシカゴ・ブルズを突如引退。その理由について、NBAがマイケルのギャンブル癖について調査に乗り出したことが原因だという噂があっという間に広まってしまった。
あれから30年以上が経った今でも、選手時代のマイケルがかなりのギャンブル依存に陥っていたことは間違いないとされている。
ローランド・レイゼンビーはマイケル・ジョーダンの伝記『Michael Jordan: A Life』の中で、ビリヤードで負けたマイケルがノースカロライナ大学チームの選手に5ドルの小切手を振り出したというエピソードを紹介している。
また、CBSスポーツのサム・クインによれば、「マイケルはシカゴ・ブルズの担当記者だったサム・スミス、レイシー・バンクスと路上でトランプギャンブルをしていたようだ」とのこと。
クインはまた、「チームメイトたちの間でマイケルは『容赦ないトランプ名人』とされており、大物ギャンブラーが相手ならどんな条件でも挑んだ」と書いている。
しかし、マイケルにとって命取りとなったのはトランプではなかった。NBAが問題視したのは、マイケルが賭けゴルフおよび賭けバスケットボールに手を出していることだったのだ。
1992年、シカゴ・ブルズがニューヨーク・ニックスと対戦する第2戦の前夜、マイケルがアトランティックシティでギャンブルに耽っていたことが発覚。前年には、ギャンブルの負けを賄うため5万7,000ドルの小切手を振り出したことを認めていた。
ジョーダンの長年の友人で一緒にゴルフをプレーする仲のリチャード・エスキナスは、1993年の著書『Michael and Me: Our Gambling Addiction... My Cry for Help』の中で、マイケルが賭けゴルフのせいで125万ドルという驚くべき額の借金を作っていたことを明かしている。
しかし、クインによれば「マイケルはその話を否定しており、エスキナスも後に、遥かに少ない額の30万ドルでマイケルと手を打った」のだという。
2005年にニュース番組『60 Minutes』に出演し、司会者のエド・ブラッドリーからギャンブルについて尋ねられたマイケルは、次のようにコメントしている:「私は抜け出せない状況に陥り、行くところまで行ってしまったんです。強迫観念かって?考えようによってはそうなります。生活や家庭をないがしろにしてまでのめり込んでいるのであれば、強迫観念だと言わざるを得ません」
ところが、マイケルは父のジェームズ・R・ジョーダン・シニアを死に追いやってしまった可能性があるのだ。彼は1993年6月に殺害されてしまったのだが、熱心なファンたちはマイケルがギャンブルで作った借金を返せずにいたことが原因ではないか、と考えているのだ。
ジェームズ・R・ジョーダン・シニアに対する強盗未遂・殺人の罪で、犯人のデメリー・グリーンおよびダニエル・グリーンには有罪判決が下されることとなった。しかし、この事件とマイケルのギャンブル癖の関連性を示唆する状況証拠があるのだ。
マイケルが降り出した5万7,000ドルの小切手に裏書されていたのは、麻薬ブローカー・マネーロンダリング犯として悪名高いジェームズ・"スリム"・バウラーの名前だったのだ。
また、マイケルはギャングに多額の借金を負っており、彼の父を殺害したのはそのギャングだという陰謀論も囁かれている。
噂の出所は、マイケルの借金とジェームズ・R・ジョーダン・シニア殺害事件の関連性について1993年に記事を書いた『オレンジ・カウンティ・ レジスター』紙のマーク・ウィッカー記者だ。
ウィッカーいわく:「今のところわかっているのは、(ジェームズ・R・ジョーダン・シニアの)息子にギャンブル癖があること、支払いに滞りが生じている疑いがあることだ。そして、父親は殺害されてしまった。果たして偶然だろうか?」
しかし、ジェームズ・R・ジョーダン・シニアが息子の借金のせいで殺害されたという説は根拠薄弱だ。事件の犯人として有罪となった2人は、違法賭博や犯罪組織とは無関係だったのだ。
NBAがマイケルのギャンブルについて調査に乗り出した時期に彼が引退を表明したことで、多くのファンはホッとしたことだろう。実際、マイケルが引退したのは、賭博を問題視したNBAによる極秘の出場停止処分によるものだったと考える人もいるほどだ。
NBAの調査の末、マイケルの不正疑惑は晴らされることとなった。しかし、調査終了に合わせるようにマイケルが引退したのは、単なる偶然としては出来過ぎているようにも思える。
けれども、マイケルがスポーツをやめることはなかった。1994年にシカゴ・ホワイト・ソックスでプロ野球に取り組んだ後、1995年にはバスケットボールに帰還、1996年、1997年、1998年の3度にわたって優勝を果たしている。
2002年~2003年のシーズンを最後に、ついに引退したマイケル・ジョーダン。しかし、父の死とギャンブル癖を巡る噂を完全に払拭することはできなかった。