MLB史上に残るホームラン王、バリー・ボンズの栄光とスキャンダル
ホームラン打者としてのめざましい活躍そしてドーピング疑惑まで、バリー・ボンズが送った波乱万丈の野球人生のすべてを振り返ってみよう。
元大リーガー、ボビー・ボンズの息子として誕生したバリー。一家がカリフォルニア州サンカルロスで暮らしていたころ、父はサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーしていた。
学生時代のバリーはスポーツ万能で、バスケットボールやサッカー、野球で飛びぬけた才能を発揮していたという。しかし、最終学年のときに打率.467を記録し、高校全米選抜チームに指名されたことで野球にのめり込むようになった。
写真 – Instagram @blbonds25
バリーの父ボビーがサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーしていた当時、野球界の花形として活躍していたのは、後にアメリカ野球殿堂入りを果たすことになるウィリー・メイズだった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、バリー・ボンズは「私にとって最高の選手はウィリーで、いつかあんな風になりたいという憧れの的でした。なんと夢は叶いました。自分のヒーローを超えてしまったんです」と語っている。
大学野球でもこの上ない成功を収めたボンズ。アリゾナ州立大学の所属選手として1984年から1985年にかけてホームランを75本記録したほか、カレッジ・ワールドシリーズでも7連続安打を放ちNCAA記録に並ぶこととなった。
写真:Instagram @blbonds25
しかし、チームメイトたちからの評判はすこぶる悪く、自己中心的すぎると見なされていたようだ。夜間外出で出場停止処分を受けたボンズのチーム復帰について、チームメイトたちは反対の立場を示したほどだ。
しかし、1985年のドラフト会議でピッツバーグ・パイレーツから6位指名。翌年、犯罪学の学位を取得してアリゾナ州立大学を卒業した。
メジャーリーグ入りが決まったボンズだが、マイナーリーグでも短期間プレー。所属球団はプリンス・ウィリアム・パイレーツとハワイ・アイランダースだった。
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ピッツバーグ・パイレーツに入団するや否やメジャーリーグで存在感を発揮。同球団でプレーした6年の間に2度のMVP、2度のゴールドグラブ賞、2度のシルバースラッガー賞を獲得したのだ。
選手個人としては大活躍を見せるボンズだったが、パイレーツがワールドシリーズに進出することはなかった。ただし、ナショナルリーグ東地区では3連覇を果たしている。
父ボビーや憧れの選手ウィリー・メイズもプレーしたサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。契約金は当時最高額の4,375万ドルだった。
「アスタリスク」という愛称で親しまれたボンズは、米国屈指の歴史を誇る球団、サンフランシスコ・ジャイアンツで快進撃をスタート。同球団でプレーした14年間のキャリアを通して、5度のMVPや5度のゴールドグラブ賞を含む38の賞を獲得したのだ。
選手としては類まれな大活躍を見せたボンズだが、ジャイアンツがワールドシリーズに進出できたのは2002年の1度だけ。しかも、アナハイム・エンゼルスに4対3で敗退してしまった。
2003年以降はバルコ・スキャンダルの渦中の人となってしまったバリー・ボンズ。バルコ社はトップアスリートたちにドーピング用の薬物を秘密裏に提供していたが、内部告発によって事態が発覚したのだ。
ウェブサイト「nydailynews.com」によれば、ボンズの専属トレーナーだったグレッグ・アンダーソンは複数のアスリートにステロイドを提供していたとして起訴されてしまうことに。ボンズは自身の潔白を訴え、トレーナーに渡されたクリームを禁止薬物だとは知らずに使ってしまったと主張した。
メジャーリーグでプレーした22年の間に数々の新記録を打ち立てたバリー・ボンズ。
野球情報サイト「baseball-reference.com」 によれば、ボンズは762本塁打やシーズン73本塁打、2558四球をはじめ、6つのメジャーリーグ記録を更新したという。
現役を引退したボンズはサンフランシスコ・ジャイアンツの特別顧問に就任。さまざまなコミュニティとの交流やイベントなどで球団のサポートにあたっている。
かつてのMBLホームラン王は現在60歳だ。プライベートではサイクリングで積極的に体力維持をはかるほか、ブラジリアン柔術にも打ち込み青帯を取るほどの腕前だという。
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