ニュージーランドが誇るラグビー代表チーム、「オールブラックス」の黒歴史とは
ラグビー界において「オールブラックス」と呼ばれるニュージーランド代表チームは、同国の人々の大きな誇りとなっている。それもそのはず、人口わずか500万人という国を代表し、100年以上にわたって世界のラグビー界に君臨してきたのだ。
オールブラックスの試合が行われるときは全国民が固唾をのんで見守る。ホームゲームが開催されるときの緊張感は大変なもので、観客席でピンの落ちた音も聞き分けられそうなほどだ。
ニュージーランド国民とオールブラックスは分かちがたいほどに結びついており、オールブラックスが達成した偉業はすべてニュージーランドそのものの名誉と捉えられる。
そういうわけで、多くのニュージーランド国民がオールブラックスに対して理想化されたイメージを持っている。スマートかつ寛容で、なによりも国のために情熱とプライドを持ってプレーするチーム、というような。
残念ながら、完全無欠の組織は存在しない。オールブラックスも例外ではなく、長年の歴史の中にはスキャンダルもあった。オールブラックスの負の歴史を振り返ってみよう。
フィールド上での失策のうちでも最悪のものが、2005年ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ対オールブラックスの一試合目で起きた、ブライアン・オドリスコルに対するスピアータックル(相手を担ぎ上げて地面に叩きつけるような危険なタックル)だ。
オールブラックスのキャプテン(当時)のタナ・ウマガとケベン・ミーラムの二人がライオンズのキャプテン(当時)ブライアン・オドリスコルを持ち上げて頭から落としてしまったのだ。オドリスコルはあわや首の骨折かとも思われたが、不幸中の幸い、肩の負傷で済んだ。それでも、これでオドリスコルのシーズンは終わってしまった。
オドリスコルが後に「walesonline.co.uk」に語ったところでは、地面に落ちていく瞬間、死を覚悟したという。
この出来事は当初審判の目を逃れたが、数か月後に録画映像が発見されて問題となった。つまりオールブラックスの二人は試合中なんのペナルティも受けなかったわけだが、それだけではなかった。証拠となった映像を見ると、二人がオドリスコルに怪我をさせる明確な意図を持っていたように見えると、『インディペンデント』紙を含む多くのメディアが主張したのだ。
「rugbypass.com」によると事故の印象をさらに悪化させたのがチームの態度で、試合のあとの記者会見で監督のグラハム・ヘンリー卿とウマガは試合中の振る舞いに問題はなかったと主張した。さらにウマガは事故について謝罪することを何度も拒んできた。
この振る舞いはスポーツマンシップにもとるとして、イギリスやアイルランドでのオールブラックスの印象に今日まで悪影響を与え続けている。
フィールド外でのスキャンダルもある。2016年、南アフリカとの国際試合のあと、ニュージーランドのクライストチャーチ国際空港のバリアフリートイレで、アーロン・スミス選手が女性コンパニオンと不適切な行為に及んだのだ。
この話はある夫婦からの通報を受けて『ニュージーランド・ヘラルド』紙が明らかにした。その夫婦は子供のおむつを取り替えたかったのだが、アーロン・スミスの不適切な利用のせいでそれができなかったのだという。
事態をさらに悪化させたのは、スミスの相手が自身のパートナーではなく行きずりの相手だったということ。スミスがその相手に対し、自分の恋人にはこのことを秘密にしておくよう頼むメッセージがすぐに流出したのも、控えめに言っても印象を悪化させた。
この話が暴露されてすぐ、スミスは本来のパートナーに涙ながらに謝罪。南アフリカ遠征から家に帰るまでのあいだの不適切な行為を詫びた。これが原因でスミスは一試合の出場停止処分となった。
2006年には再びタナ・ウマガがニュージーランド全土で話題となったが、この出来事は他の国ではあまり知られていないかもしれない。
事件が起きたのは、スーパー14(南太平洋の国際リーグ。現スーパーラグビー・パシフィック)の試合後の早朝。ニュージーランドのチーム「ハリケーンズ」の選手たちが夜通し酒を飲んでいたところ、オールブラックスの元キャプテンのウマガとハリケーンズのクリス・マソエとの間にいさかいが発生したのだ。
『ニュージーランド・ヘラルド』紙によると、ウマガがマソエの頭をある女性のハンドバックで殴打。その勢いは中の携帯電話が壊れるほどで、マソエの目には涙が浮かんでいたという。
「Stuff.co.nz」によると、その時に使われたのバッグはRoxyの安物だったが、後にオークションにかけられて22,000ニュージーランド・ドル(約180万円)の値が付いたという。
もっと深刻な暴力事件もある。2019年、ウィンガーのセヴ・リースがハミルトンの自宅で恋人と喧嘩になり、身体的暴力を振るったことがわかったのだ。
イギリスのタブロイド紙『ザ・サン』によると、リースは外の道路に逃れた恋人を追いかけて地面に押し倒し、女性は出血しアザになっていたという。リースは罪を認めたが、裁判所で有罪判決は受けず前科もつかないという制度を利用、釈放された。前科が付くと彼のラグビー選手としてのキャリアに影響があることを裁判所が考慮した結果かもしれない。
この事件後もオールブラックスのスティーブ・ハンセン監督がリースを擁護し、引き続き代表に招集をかけたことは多くの人にショックを与えた。
この問題について、ハンセンは「ラジオ・スポーツ」にこう語った:「ニュージーランド国民なら誰もが彼をチームに招くはずだと思いますよ」
オールブラックスでプレーできるほどの実力があればどんな許しがたい行為をしてもいいということが明らかとなってしまった。
1970年以前、南アフリカにアパルトヘイト政策が残っていた時代、ニュージーランドのラグビーユニオンはそのことを理由に南アフリカ遠征での代表チームにマオリ系の選手を選ばないというポリシーを設定していた。南アフリカ代表チームはマオリ系の選手とプレーすることを拒否しており、国際遠征で入ってくるお金は無視できないものだったからだ。
これはつまり、ニュージーランドの優れた選手の多くがそういった遠征には選ばれなかったことを意味する。しかも、1970年にそのポリシーが改訂されてからも、しばらくの間はごく限られた選手しか遠征チームに組み込まれることはなかった。
だがニュージーランドの国民はこの差別的ポリシーに反発、声を挙げた。1981年南アフリカ代表のニュージーランド遠征の際には大きな抗議活動となった。それを受けて、オールブラックスもしだいにアパルトヘイト政策に反対するようになっていく。
これはニュージーランドというよりは南アフリカの問題かもしれない。じっさい、ニュージーランドはラグビーにおける人種差別に対して立ち上がった最初の国でもある。それでも、そんなオールブラックスにもあまり思い出したくない時代があったこともまた事実だ。