世界一ツイてる金メダリスト?: 事故に怪我、年齢をも乗り越えたスティーブン・ブラッドバリー

スポーツ界の伝説となったレース
スポーツ一家の生まれ
17歳で世界大会優勝を経験
1992年、最初のオリンピック
冬季オリンピック初のメダル
個人競技にも参加
一度目の大けが
1998年長野オリンピック
二度目の大けが
2002年ソルトレークシティオリンピック
準決勝への道
番狂わせな準決勝
決勝戦
意外な結果に
ブラッドバリーは語る
名前が慣用句に
幸運の背景には粘り強さが
スポーツ界の伝説となったレース

スティーブン・ブラッドバリーはオーストラリアの元男子スピードスケート選手。ショートトラックの選手としてオリンピックに個人・団体などで4度出場経験がある。現役期間は長かったが、彼の名前がスポーツ界の伝説となったのは現役最後のレースでの出来事があったからだ。

スポーツ一家の生まれ

ブラッドバリーは1973年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州カムデン生まれ。父親は当時オーストラリアのスピードスケートのチャンピオンで、スポーツ一家だった。そういうわけでブラッドバリー自身も幼いころから氷上に立ち、ブリスベンのルース・スピードスケーティング・クラブで技術を磨いていった。

17歳で世界大会優勝を経験

オーストラリアにウィンタースポーツのイメージはあまりないかもしれないが、実は1991年にシドニーで行われた世界ショートトラックスピードスケート選手権大会で5000mリレー優勝を果たしている。当時僅か17歳のブラッドバリーもメンバーの一人としてその優勝に一役買い、オーストラリアに史上初のウィンタースポーツでの金メダルをもたらしている。

1992年、最初のオリンピック

世界大会での優勝に貢献したにもかかわらず、ブラッドバリーは1992年のアルベールビル冬季オリンピックでは5000mリレーでは補欠選手だった。オーストラリアは優勝候補と目されていたが、準決勝で転倒してしまいメダルには届かなかった。

冬季オリンピック初のメダル

だが、1994年のリレハンメル冬季オリンピックではオーストラリアは三位となり、オーストラリア初の冬季オリンピックでのメダルを手にする。その時はブラッドバリーもメンバーの一人として堅実な走りでサポート、二位のアメリカチームとは僅差での三位となった。

個人競技にも参加

ブラッドバリーは同じオリンピックで個人競技にも出場。1000mでは優勝候補と見るむきもあった。だが、いい走りを見せたものの、転倒や妨害に悩まされ24位という結果に終わってしまった。

一度目の大けが

スピードスケートは最大で時速50キロ近くなることもある危険なスポーツだ。1994年のモントリオールワールドカップでブラッドバリーはその危険性を実感することになってしまう。転倒の際に他の選手のスケートで腿の上部を切り、4リットルもの血液を失う事態になったのだ。ブラッドバリーは111針も縫うことになり、リハビリには18か月かかった。

1998年長野オリンピック

1998年の長野オリンピックでは5000mリレーに前回のメダリスト4人のうち3人が再出場、今度こそ金メダルと期待されたが、チームは最下位の8位に終わってしまった。個人競技でも前回同様に転倒や衝突があり、優れた成績は残せなかった。

二度目の大けが

2000年には再び事故があり、普通の選手ならキャリアの終わりになるような怪我を負ってしまう。地元シドニーでの練習中、目の前で転倒した他のスケーターを避けようとして壁に激突、首を骨折してしまったのだ。ブラッドバリーは背骨に4本ものボルトを入れられ、引退するよう勧められたが拒否、怪我をばねに再挑戦することを選んだ。

2002年ソルトレークシティオリンピック

2002年の冬季オリンピックはアメリカのユタ州ソルトレークシティで開催された。その頃にはブラッドバリーもケガから回復し、良好な成績を出せていた。今回はリレーには出場せず、個人競技に専念。だが、ブラッドバリーの選手としてのピークは過ぎており、メダルはおろか準決勝に出場するためにもかなりの運が必要なことは自他ともに認識していた。

準決勝への道

一回戦はブラッドバリーが混戦を制し、1分30秒956という良好なタイムを出した。その結果二回戦では強豪が立ち並ぶ組に入れられ、準決勝に進むためにはその組で二位以内に入らねばならなかった。ブラッドバリーは好走したがそれでも3位に終わり、夢は潰えたかに見えた。だが、当時世界チャンピオンだったマーク・ガニヨンが接触のせいで失格となり、ブラッドバリーは準決勝に進出できることになった。

番狂わせな準決勝

こうして準決勝に進出したブラッドバリーだったが、次に進むためには堅実に滑り、他の選手のミスを待つしかないことも理解していた。ブラッドバリーの走りではとても追いつけないのだ。ブラッドバリーは最後尾ですべっていたが、韓国の金東聖、中国の李佳軍、そしてカナダのマシュー・ターコットの三人が転倒したことで二位でゴール。しかも一位でゴールしていた日本の寺尾悟が失格となったため、なんとブラッドバリーが繰り上がりの一位で決勝に進出した。

決勝戦

こうしてオリンピック1000mの決勝の舞台に立ったブラッドバリー。だが決勝のレベルは高い。決勝戦には地元アメリカ出身でなんども世界チャンピオンになっているアポロ・アントン・オーノや6度の金メダル獲得歴を誇る安賢洙(現在はヴィクトル・アン)、複数のメダル歴を持つ李佳軍、そして才能の塊とも言うべきマシュー・ターコットと超有力選手がそろい踏みしていた。

意外な結果に

ブラッドバリーは準決勝までと同じ戦略を採用(その効果のほどは立証済みなのだ)、後方に付けてミスを待つ戦法を取った。するとなんと、最終コーナーでほかの選手全員がまとめて転倒、ブラッドバリーの前を滑るものは誰もいなくなった。こうしてブラッドバリーはオーストラリアに初の冬季オリンピックでの金メダルをもたらすこととなった。

ブラッドバリーは語る

レース後、ブラッドバリーはこう語った:「決勝戦では私が最年長で、そのことは自分でもわかっていました。決勝までの連戦で私はもうガス欠でした。だから、戦闘集団と一緒になって競り合うことに意味はなかったのです。どうせ最後尾に来ることになりますからね。そういうわけで、先頭とは距離を置いて最後尾に付け、誰かが接触するのを待っていたというわけです」

名前が慣用句に

スポーツの盛んなオーストラリアのこと、ブラッドバリーは故郷に大歓声で迎えられた。しまいには「ブラッドバリー」という名前が幸運でなにかを手に入れることの代名詞として用いられるようになったほど。ブラッドバリーはオーストラリア勲章を授与され、切手にもなって人々の記憶に永遠に残り続けている。

幸運の背景には粘り強さが

しばしばスポーツにおける幸運の代名詞と見られがちなブラッドバリーだが、彼もスケート界では世界トップレベルの実力を誇っていた時期がある。怪我や転倒に悩まされていなければ順当に金メダルに手が届いていた公算は高い。この金メダルをもたらしたのはなによりも彼の粘り強さであり、そのことは彼自身のことばにもっともよく表れていると言えるだろう:「この金メダルはいまの1分半のレースの結果だとは考えていません。キャリア最後の、苦闘に満ちた10年間の結果として受け取りたいと思います」

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