人気スノーボーダーからグラビアアイドルへ:今井メロの波乱に満ちた半生
30代半ばにして波乱万丈の半生を送ってきたスノーボーダーの今井メロ選手。活躍を期待された五輪での挫折を経て、思いがけない方向転換をしていたようだ。
今井選手にとってターニングポイントとなったのは2006年のトリノオリンピックだ。メダル獲得を確実視されていたものの、予選で転倒。ヘリコプターで救急搬送される事態になってしまったのだ。
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結果は出場者34名のうち最下位。メディア各社も伝えているとおり、「日本の恥」「税金の無駄使い」といった心無いバッシングを受けることになってしまったのだ。
『サンケイスポーツ』紙によれば、あまりに激しい批判を浴びたために、半年間もひきこもり生活を送ることになってしまったそうだ。
この時点では引退したわけではなかったが、今井選手がかつての勢いを取り戻すことはなかった。五輪での挫折と世間から向けられる冷たい視線によって、すっかり打ちのめされてしまったのだ。
『トーキョー・ウィークエンダー』誌によるインタビューの中で、今井選手は「多くのアスリートにとってオリンピックはキャリアの頂点ですが、私にとっては悪夢でした。ケガをして競技を続けられなくなってしまったのもありますが、すべてがひどい経験だったんです。五輪が近づくと、失敗するのが怖くて息が詰まりそうでした。キャリア全体がそうだったとも言えます」とコメント。
今井選手は兄の成田童夢選手とともに、父の成田隆史コーチから猛烈な特訓を受けて育ったが、すべてをスノーボードに捧げるその指導は行き過ぎだったのかもしれない。
『トーキョー・ウィークエンダー』誌によるインタビューの中で、今井選手は「よく長野に行って練習したほか、大阪の自宅でもトランポリンを使ってスキルを磨きました。トレーニングは通常、朝5時に始まり、夜の11時まで続くこともありました。父は私たち兄妹がスノーボードに集中することにこだわり、私は高校進学もできませんでした。そのせいで、あまり勉強する機会がなかったんです」と回想している。
結局、今井選手と兄の成田童夢選手はコーチだった父と決別。このとき、今井選手は成田姓を捨て、母方の今井姓を名乗るようになった。FOX放送によれば、「スカートやお化粧など、女の子らしいことは全部禁止されていました」とのこと。
オリンピックでの失意から回復することなく、引退へと向かった今井選手だが、生活するにはお金が必用だ。さらに、「キラキラした華やかな世界」への憧れも相まって大阪のキャバクラで働くことにした、と『サンケイスポーツ』紙が伝えている。
FOX放送によれば、今井選手はその後、コールガールの仕事やヌード写真集のリリース、アダルト映画出演を経験することとなった。いわく:「私はもともととても内気で、いつも自分の身体を隠そうとしていました。でも、最近は違います。整形手術も受けましたが、それだけが理由ではありません。以前より自分を信じられるようになったんです」
これによって、経済的な安定を手にした今井選手だが、精神的には追い詰められてしまっていた。『デイリースポーツ』紙によれば、このころの今井選手は何度も自ら命を絶ちかけるほど苦悩していたという。
それでも、今井選手はスノーボーダーという知名度を活かし、兄ともどもタレントとしての道を歩むようになった。
写真:TokyoReporter
また、2017年には競技にカムバックし、全日本スノーボード選手権大会のハーフパイプ種目で優勝。『ザ・サン』紙のインタビューに対し、「スノーボードの世界に戻りたかったので、アダルト業界には関わらないようにしてきました」とコメントしている。
さらに、「11年ぶりのスーパーパイプだったので、とても緊張しました。でも、今回は母が観戦に来てくれたので、全力で勝ちに行くしかないと思いました」と語った。
『トーキョー・ウィークエンダー』誌のインタビューに対し、今井選手はこう語っている:「話を聞いてもらえば、私の人生すべてがネガティブだったわけではないと分かってもらえるでしょう。グラビアアイドルの仕事も楽しんでいますし、スノーボードも再開しました。子供たちを含め、さまざまな人にスノーボードの指導もしています。プレッシャーを感じずに、楽しんでもらいたいんです。つまり、私が受けた特訓とは正反対です」
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