伝説のホームラン王は大食いチャンピオン?:ベーブ・ルースの知られざる素顔に迫る
史上最高の野球選手とされることも多いベーブ・ルース。その多彩なテクニックや外野を打ち抜くパワーについてはすでに詳しく解説されており、いまさら言うことはあるまい。しかし、ベーブ・ルースに関して本当に驚くべきは、その食生活や喫煙・飲酒量だ。
1895年にボルチモアで誕生したジョージ・ハーマン・ルース。しかし、7歳のときに家族のもとを離れ、少年工業学校に通うようになる。ここで野球と出会ったベーブは、比類ない正確さとスピードを誇るピッチャーとしてアスリート人生をスタートさせることとなった。
ベーブは工業学校を卒業するや否やボルチモア・オリオールズと契約。そして、翌年にはボストン・レッドソックスに移籍することとなった。当時はまだ投手としてプレーしていたが、後に外野手に転向。これによって、毎日試合に出場してはホームランを量産するという、ベーブの伝説が始まるのだった。
当時、レッドソックスのオーナー、ハリー・フレイジーは劇場の経営などにも携わっており、しばしば不可解な金銭問題に悩まされていた。そこで、ベーブのような有名選手をトレードに出すことで懐事情を改善しようとしたのではないかとされている。
「バンビーノ」の異名で活躍中だったベーブの売却は、球団として充実した時期を迎え、長期にわたりメジャーリーグを制覇する可能性もあったレッドソックスにとって大きな悲劇だったという。そして、このトレード以降、レッドソックスは86年間にわたってワールドシリーズ優勝を逃し続けることとなり、「バンビーノの呪い」と揶揄された。
眠らない街ニューヨークはスターを生み出す場所でもある。しかも、1920年代の好景気とテクノロジーの進歩は、人々がセレブに親しむきっかけとなっていた。そして、1921年にMLBの試合がラジオで放送されるようになると、ベーブ・ルースは一躍誰もが知るスター選手となったのだ。
ベーブ・ルースはプロアスリートとしては決して体格がよい方ではなかったが、その大食漢ぶりには目を見張るものがあった。レアステーキに卵6個、フライドポテトという朝食のメニューは、ハードな運動をこなすアスリートにとって多すぎるということはないのかもしれない。しかし、朝からウイスキーとジンジャーエールを1パイントずつ飲み干し、仕上げにコーヒーポットまで空にしてしまうのだから恐れ入る。
ベーブ・ルースの好物はといえば、とにかくレア肉の塊だ。昼食のメニューはレアのポーターハウスステーキ2枚から始まり、ブルーチーズのドレッシングに浸したレタス2玉、フライドポテト2人前がこれに続く。そして、それでもまだ空腹なら、アップルパイを丸ごと2つ平らげてしまうのだ。
「おやつ」と聞いてたいていの人が思い浮かべるのはお菓子や果物、ナッツの類だろう。しかし、ベーブにとって、そんなものは「おやつ」とは言えなかった。では、ベーブのおやつはというと、ホットドッグ4本に加えコカ・コーラ4本を、肉だらけの食事の合間につまんでいたという。
夕食のメニューはレアのポーターハウスステーキ2枚、ブルーチーズのドレッシングに浸したレタス2玉、フライドポテトを2人前。意外と普通かと思いきや、この量を毎日平らげていたらしい……
さて、ここまで見てきたベーブの食事メニューは、量はともかくとして美味しそうな内容ではあった。ステーキにフライドポテト、サラダという組み合わせは、たいていの人にとってご馳走だろう。しかし、デザートについては話が違う。チョコレートアイスにウナギのゼリー寄せという取り合わせは、あまり万人受けするものではないのだ。
大酒飲みだったベーブ・ルース。10代のころにビールの味を覚えるや、その習慣は生涯抜けなかったのだ。なお、1920年代の米国では禁酒法が施行されていたが、ベーブが酒の入手に苦労したという話はない。そして、試合前夜にウイスキーのボトルを空けることもしばしばだったが、それによって打撃能力に支障が出るようなことはなかったという。
ベーブの食生活と飲酒量は普通の人であれば、気絶どころか死に至るレベルのものだ。ところが、ベーブは野球選手としてだけでなく、パーティー好きの女たらしとしても一流だった。翌日に試合を控えた深夜に、ホテルのバーで女性に囲まれている姿を何度も目撃されているのだ。
このようなライフスタイルを送っていたベーブが、ときどき体調を崩していたとしても驚くには当たらない。たとえば1925年には、理想体重を遥かに上回る118キログラムで春季トレーニングに登場。案の定、トレーニング中に腹痛で倒れ、病院に搬送されている。これを受け、早まった一部の新聞はベーブの訃報を掲載してしまったという。
1930年代半ばにさしかかると、ベーブは以前のような活躍を見せることができず、過去10年に打ち立てた不朽の偉業もプレッシャーとなっていた。引退後は球団のゼネラルマネージャーを任されるだろうと考えていたベーブだが、とあるオーナーいわく:「自分自身すら管理できないのに、他人の管理なんかできるものか」ごもっともである。
引退後のベーブはなんとかプロ野球界との関わりを保とうと、さまざまな球団に申し出たがいつも門前払いされてしまった。ヤンキースの打撃コーチとして実質的なマスコットになったことを除いて、MLB球団に雇われることはなかったのだ。
1946年になると、ベーブは頭と首の慢性的な痛みをはじめ、健康問題に悩まされるようになっていた。診断の結果、頭蓋骨の付け根に悪性腫瘍があり、手術で摘出することはできないと判明。
放射線と抗ガン剤の投薬を組み合わせた治療法など、当時としては最先端の医療を受けることができたベーブ・ルース。その後も旅行をしたり、フォード社や野球界の広告塔として活動したりするなど、治療は一定の効果を挙げているように見えた。
1948年8月中旬、ベーブ・ルースは眠りながら息を引き取った。医師たちの努力もむなしく、ガンの勢いを止めることはできなかったのだ。葬儀には野球界の伝説の死を悼む7万5,000人あまりの人々が訪れたという。
キャリアを通じて当時の米国の理想像を体現し、時の人となったベーブ・ルース。バッターボックスという小さな空間で急速な国際化の時代を生き抜き、世界のスポーツ界に大きな遺産をのこしたのだ。
スポーツライターのH・G・サルシンガーはベーブについて「同時代の誰よりも多く食べ、多く飲み、多く喫煙し、多く宣誓し、多く楽しんだ」と書いている。伝説となった男の逸話には疑わしい点もないわけではない。はたして、1日にステーキを6枚も食べていたというのは本当なのか、今さら確かめる術はないのだ。しかし、アメリカンヒーローの代表として人々の記憶に刻まれたことだけは確かだ。