伝説の自転車ロードレーサー、アルベルト・コンタドール:栄光と転落
スペイン語でガンマンを意味する「エル・ピストレロ」の愛称で親しまれたアルベルト・コンタドール。ドーピング騒動を乗り越え、数多くのタイトルを獲得した伝説の自転車ロードレーサーだ。今回はその波乱のキャリアを振り返ろう。
コンタドールは1982年12月6日にスペインの首都マドリードで誕生した。
きょうだいは兄と姉が1人ずついるほか、脳性麻痺を患う弟もいる。
サッカーや陸上競技に親しんできたコンタドールだが、兄フランの影響もあって12歳のときに自転車競技を始めたそうだ。
数年後、コンタドールは重大な決断を下す。高校を中退し、自転車競技に専念することにしたのである。
当時、コンタドールはトロフェオ・コルメナレホやトロフェオ・インダストリアル・デ・パラクエジョスといったスペイン国内のレースで初優勝を果たしており、若手選手としてすでに名を馳せていた。
2001年、コンタドールはスペインの強豪アマチュアチームであるイベルドローラからアマチュアレーサーとしてのデビューを果たす。そして、翌年にはヴュルトに移籍することとなった。両チームでは数々の勝利を収めている。
2003年にはプロに転向し、オンセ・エロスキに所属。最初の大きな勝利はツール・ド・ボローニュの第8ステージ、タイムトライアルだった。
2004年、リバティ・セグロス・ヴュルト・チームからレースに出場していたコンタドールは、ブエルタ・ア・アストゥリアスの第1ステージで体調不良の末転倒。後に脳海綿状血管腫と診断された。順風満帆に思えたキャリアのなかで、初めての大きな挫折だった。
2015年にコンタドールは、忘れることができない出来事として英『ガーディアン』紙に語っている。「本当にひどい頭痛でした。それでも第1ステージを走ろうとしたのですが、スタート時に激しい悪寒を感じました。覚えているのは最初の40キロと、集団から滑り落ちて転倒したことだけでした。けいれんはそのときから始まりました」と説明した。
「幸い救急車が来て、呼吸をスムーズにするためにチューブを入れてくれました。レース中だったのは不幸中の幸いでした。もしトレーニング中だったら最悪の結果になっていたかもしれません」と彼は続けた。
コンタドールは大手術を受けた結果、7か月後にようやくトレーニングに復帰することができた。
2005年シーズンはオーストラリアで行われるツアー・ダウンアンダーから始まり、第5ステージでは優勝を果たした。自転車競技専門メディア「Cycling Today」によると、このツアー優勝はコンタドールにとって「最も重要なタイトル」になったという。
2005年には、イツリア・バスク・カントリーとツール・ド・ロマンディで好成績を収め、セマナ・カタラナでは総合優勝を果たした。コンタドールはリバティ・セグロスからツール・ド・フランスに出場し、総合31位でフィニッシュした。
しかし2006年には、コンタドールはスペイン警察によるドーピング摘発作戦「オペラシオン・プエルト」の結果、ドーピング疑惑が持ち上がり、主催者からツール・ド・フランスへの参加を拒否されてしまった。
2007年にはディスカバリーチャンネル・プロサイクリングチームに移籍。ツール・ド・フランスに復帰した。
コンタドールはフランスで力強いパフォーマンスを見せ、デンマークのミカエル・ラスムッセンの棄権により、マイヨ・ジョーヌ(個人総合時間賞)を手にした。そして総合首位の座を守り、初のグランツールを勝ち取った。
コンタドールはカザフスタンのチーム、アスタナに2008年移籍。ジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャで優勝し、3つのグランツールすべてで優勝した史上5人目の選手となった。
その後も、コンタドールの勝利への意欲に陰りは見られなかった。2009年には、自身2度目のツール・ド・フランス優勝を果たしている。
2010年、コンタドールは再びツール・ド・フランスで総合優勝候補の一人となり、マイヨ・ジョーヌ(個人総合成績トップの選手に与えられるジャージ)を着てパリに到着。3度目の総合優勝を果たした。しかし、ここで思わぬ出来事が発生する。
9月、ツール・ド・フランスからほどなくして、ドーピング検査で禁止薬物であるクレンブテロールの陽性反応が出たと発表された。食品に禁止薬物が残留していたことが原因になったという。競技から追放される可能性に直面しながらも、コンタドールは自転車競技を続けた。
ドーピング検査の陽性反応により、2010年ツール・ド・フランスと2011年ジロ・デ・イタリアのタイトルは剥奪。さらに、2012年8月まで出場停止処分が下った。その結果、チーム・サクソバンクとの契約も打ち切られている。
しかし、コンタドールは偉大なチャンピオンとして再び返り咲く。彼はサクソバンク・ティンコフバンクと再契約し、ブエルタ・デ・エスパーニャに参戦。2012年に2度目の総合優勝を果たした。
その後数年間、コンタドールは2014年のブエルタ、2015年のジロなど、さらなるタイトルを獲得し、グランツールの優勝回数は合計7回となった。
その結果、コンタドールはツールを5回制したミゲル・インドゥリアンと並び、史上最高のスペイン人ライダーの一人とみなされている。
コンタドールは2017年に引退したが、自転車競技から離れることはなかった。
現在はイタリアのEolo-Kometa UCI ProTeamでサイクリングチームのマネージャーとして活躍している。
さらに、米スポーツ専門放送局「ユーロスポーツ」の自転車競技解説者としても定期的にメディアに出演している。
2013年には自ら財団を立ち上げ、自転車競技の推進と脳卒中の予防・発見の啓発活動にも積極的に取り組んでいる。
コンタドールは、自転車競技界における偉大なレジェンドとして数多くのファンを魅了した。獲得してきたいくつものタイトルと、その波乱万丈のキャリアはいつまでも語り継がれるだろう。