依存症に悩まされるプロレスラー、ジェフ・ハーディ:これまでのキャリアと今後の展望
ジェフ・ハーディーはアメリカンプロレス界のレジェンドと言っても過言ではない。米プロレス団体WWE(旧WWF)のアティチュード時代(1997-2002)やそれ以降の伝説的な試合に何度も登場したのみならず、その高度な技術はいまのWWEにも脈々と受け継がれている。
だが、ジェフ・ハーディーの経歴は輝かしいだけではなく、公私にわたって深刻な問題に悩まされてきてもいる。そんな彼の今日までのキャリアを振り返ってみよう。
Image Credit: Screenshot YouTube @WWE
ジェフ・ハーディーは1977年8月31日、アメリカのノースカロライナ州生まれ。早くも12歳のころから、モトクロスや野球、アメフトなどさまざまなスポーツで才能を発揮し、本人もスポーツ界に飛び込む決意を固めていった。
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兄のマット・ハーディーとともにトランポリン・レスリングの若手パフォーマーとしてデビューしたのもこの頃だ。兄弟ふたりはやがてレスリングに本格的に取り組み始め、より本格的な団体OMEGA(Organization of Modern Extreme Grappling Arts)に移籍する。
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ジェフはアメフト選手としても有望だったが、高校からどちらかに絞るよう迫られレスリングを選択。こうしてプロレスに専念するようになったハーディーは、10代の頃から東海岸を巡って独立団体にアプローチ、ACWなどで活躍の場を見つけた。
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ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアー、スティング、ショーン・マイケルズなどのレスラーに憧れていたハーディーは常に大物レスラーを目指していた。だからこそ、ハーディーは16歳のときに年齢を偽ってまでWWF(現WWE)とECWのドアをくぐったのだ。最初こそジョバー、いわゆる噛ませ犬の役を振られていたが、1994年にはレイザー・ラモンやキングコング・バンディ、トリプルH、オーエン・ハートなどと対戦できるようになった。
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1998年には兄マットとともにWWEから正式な契約オファーを受け、華麗なアクロバットが特徴の兄弟タッグ、ハーディー・ボーイズを結成。エッジ&クリスチャン戦やダッドリー・ボーイズ戦は話題となり、タッグ王座人気再燃の火付け役となった。後にハーディー・ボーイズの代名詞となるタッグでのラダー・マッチ(はしごを使った試合)もこのころ始まった。
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ハーディー兄弟はスタイルも当時のプロレスラーとは違っていた。ピチピチの服に身を包んだレスラーというイメージからは一線を画す「オルタナ」スタイルはまるでロックスターで、これまでとは違った観客層にアピールすることができた。
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2000年にはマットの実際の交際相手でもあるリタを加えてチーム・エクストリームを結成、新たなステージに進んだ。3人はルチャリブレに影響を受けた本格的な飛び技が売りで、なかでもテーブルやはしご、椅子を使った試合は定番だった。チームはタッグ王座の常連となったほか、個人でもそれぞれインターコンチネンタルやハードコア、ヨーロピアン、女子王座など数々のタイトルを手にした。
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そういった大一番の時には、ジェフがパフォーマー精神を発揮し観客を驚かせるためにひときわ大胆な技を繰り出すこともあった。なかでも有名なのが「スワントーンボム」で、ジェフはこの得意技をあらゆる高さから披露してみせた。一度などは9m以上の高さがあるアリーナの足場から放ったし、ターンバックルやリング外の環境や凶器もさまざまに活用した。
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こうしたパフォーマンスもあってジェフの人気は急上昇、2002年にはWWEで自身最大のブレイクを経験する。スーパー王座戦でジ・アンダーテイカーとラダー・マッチを行い、ジェフは負けたものの試合は語り草となり対戦相手からもリスペクトを獲得、将来トップタイトルを争う地盤を固めることができた。
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だが、キャリアの全盛期を迎えていたこの頃、ジェフの私生活はとても理想的とは言い難く、2003年にはWWEから契約が解除されてしまう。WWE.comによれば直接の理由はジェフの薬物テストで陽性反応が出たことで、それに加えてイベントをすっぽかしたり薬物中毒の治療を受けることを拒否したりするなど、行動が制御不能になってきていたからだったという。
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2021年、ジェフはあるテレビ番組で当時を振り返り、司会者のスティーブ・オースティンにこう語っている:「リハビリを拒否したのはその時が最初だった。『けっ、そんなもん』って感じでね。でも、それは自分の抱えている問題を見ないようにしているだけだった」
ジェフはこう続ける:「ドラッグは21歳か22歳ごろまでやったことはなかった。いつもマットと巡業していて、ふたりとも反対派だった。それこそが俺たちの無敵の強さだった。高校でもパーティには行かなかった。酒も飲まなかった。どれも好きじゃなかったから、やらなかった。でもそれが全部変わってしまった」
ドラッグ問題は次の契約にも影を落とし続けた。2004年から2006年にかけて、ジェフはTNAに所属していたが、相変わらず本番に現れなかったりしたため、2006年6月に解雇されてしまう。
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この解雇がきっかけとなってジェフはようやく依存症から立ち直り、WWEを含めた多くの団体からオファーを受けるようになった。2006年8月にはWWEに復帰し、今度こそキャリアの全盛期を迎える。復帰後すぐにマットと合流し、ふたりでタッグ王座を獲得。ジェフは個人でも2007年にインターコンチネンタル王座を、2008年にはWWE王座および世界ヘビー級王座(WWE)を獲得、まさにプロレス界の頂点を極めた。
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WWEでのキャリアは絶好調、人気もうなぎのぼりのジェフだったが、私生活の歯車はふたたび狂い始めていた。この時期、ジェフはまたしても薬物テストに引っかかり、依存症治療に取り組む間は脇役に徹することになった。しかし、椎間板ヘルニアやレストレスレッグス症候群(むずむず脚症候群)、燃え尽き症候群などに悩まされ、2009年には一度引退してしまう。
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だが、ジェフはすぐにリングに戻ってきた。2010年に再びTNAと契約し、ハルク・ホーガンやリック・フレアー、ロブ・ヴァン・ダム、カート・アングルらと共にリングに上った。だが、仲間には恵まれたものの、ジェフは相変わらずひどい状態だった。この契約も1年持たず、ジェフはまさにどん底に落ち込んでしまった。
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2011年3月、ジェフはTNAヘビー級王座を賭けて子供時代のヒーロー、スティングと対戦。だがジェフはその試合に深い酩酊状態で現れた。本人いわく、技の過程で首の筋肉に損傷の恐れがあったので予め筋弛緩剤を投与したためだということだったが、リング上で立つことすらおぼつかない様子に観客は衝撃を受けた。スティングは試合開始後数秒でジェフを抑え込み、ピンフォールで勝利。安全上のリスクがある、というのがその理由とされた。
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ジェフは後に、この時の出来事があったからこそ自分の抱えていた薬物中毒という問題に正面から向き合えるようになったと振り返っている。
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2021年、ジェフはスティーブ・オースティンにこう語っている:「あの夜みたいにすべてを台無しにするなんて、正気の沙汰じゃなかった。でも、あの時の映像を見直すとひとついいことがあって、とにかく恥ずかしいんだ。ただただ恥ずかしいとしか言えない。憧れのヒーローとメインイベントを共にして、あらゆる人がこっちを見ている。なのにこんなことを? ってね。あの後、ようやく本当に立ち直ることができたよ」
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その試合後、TNAから解雇されたジェフだったが、半年後、きっぱりと薬物を絶ち、先の試合の出来事をどん底としてファンに「もう一度チャンスを」と許しを請うた。そうして健康になって復帰したジェフは、長い間失われていた熱意と活力をもって活動を再開した。
TNAでの続く数年間はジェフにとって実り多い物となり、TNA世界ヘビー級王座も何度か獲得してTNAのメインカードとしての地位を確立した。また、OMEGA時代のキャラクター「ウィロー」を復活させ、数年ぶりに兄マットとタッグを結成、シングルでもタッグチームでも、ふたりでストーリーを盛り上げた。
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マットとのタッグ再結成は後に「壊れた」マットというギミックに繋がった。これはジェフの攻撃によって頭部に傷を負ったマットががらりと人格が(発音まで!)変わってしまうというもので、ひねりも加えたストーリーはTNAファンに何年ものあいだ愛されることとなった。
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ふたりのこの人気はWWEも無視できず、2018年には再びWWEに復帰。今回はジェフはいくつか中堅タイトルを獲りはしたものの、前回契約時ほどの成功とはいかなかった。というのも、リング上やモトクロスイベントで負った怪我が原因で休場を繰り返していたのだ。
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WWE.comによれば、このころには依存症問題も再燃してしまったらしい。2019年には飲酒運転が発覚して法律問題に直面している。そして2021年12月、テレビ中継の入らないタッグ・マッチから退場したのを最後に解雇された。WWEはジェフの退団について声明を発表したが、それ以上の詳細は明らかにしなかった。
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2022年にはAEWに所属する兄のもとに向かったが、同年6月に再び飲酒運転で逮捕される。今回は免停中だったこともあり、あわや刑務所行きという事態にまで陥った。AEWはジェフが依存症治療プログラムを終えるまで休場させ、2023年4月にようやく公式な復帰を迎えた。
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依存症は何度もジェフのキャリアを狂わせてきた。だが、ここで忘れてはいけないのが、彼の抱える問題はその大部分が自身の派手なプレースタイルから生じる怪我への自己流の治療に由来するという点だ。ジェフは自分のスタイルが怪我をしやすいことは認識しており、2018年からは選手生命を伸ばすためにも別のスタイルを模索している。
浮き沈みの激しいキャリアで、いまもなお問題を抱えているが、ジェフはこれからもプロレスを続けるという希望を捨てていない。今年7月、YouTubeチャンネル「マッスル・マン・マルコム」に登場した際には、いまも怪我はあるものの、あと5年は続けたいという望みを語っている。
ジェフはこう語る:「今日この後、家に帰ろうとしたときになにかが起きて急にキャリアが終わってしまうかもしれない、いつもそういうことは考えています。小さなことが命取りになるというのはよくあります。それでも、保証はできませんが、50歳までは続けられそうな気がします。いま私は45歳です。50歳になるまでのあいだに、たくさん見せ場を作りたいと思います」