元アルペンスキー選手の失踪と死:ブランカ・フェルナンデス・オチョア
ブランカ・フェルナンデス・オチョアはスペイン出身の優れたスキー選手であり、スペイン代表女子選手として初めてオリンピックでメダルを獲得した人物として歴史に名を残している。しかし残念なことに、メンタルヘルスの問題を抱え、最後には痛ましい死を遂げることになってしまった。
1963年生まれのブランカ・フェルナンデス・オチョアは幼いころから雪に親しんだ。両親がマドリード州ナバセラダにあるスキーリゾートでスキースクールを経営していたのである。オチョア家はスキーとの関わりが深く、じつはブランカの前にもオリンピアンを輩出している。1972年札幌オリンピックでは兄のフランシスコ・フェルナンデス・オチョアが金メダル(アルペンスキー男子回転)を獲得している。
1992年2月、ブランカはフランスで行われた冬季オリンピック・アルベールビル大会で銅メダル(女子回転)を獲得した。これによって、スペイン紙『マルカ』が報じるように、彼女は冬季オリンピックでメダルを獲得した最初のスペイン代表女子選手となったのだ。
そのほかにも、アルペンスキー世界選手権で4つの銅メダルを獲得(1987年は大回転、1988年はスーパー大回転、1991年と1992年は回転で)、通算すると20回表彰台に立った。1981年のヨーロッパカップ大回転では優勝を果たしている。
その人生でブランカは、スペインの優秀なアスリートに授与されるソフィア王妃賞に1983年と1988年に選ばれている。また、スペイン政府の「王室スポーツ功労勲章」(Real Orden del Mérito Deportivo)を1994年と2019年に授与されている。
ブランカはスペインの女子スポーツ振興につとめた先駆者とも考えられている。『インデペンデント』紙をはじめ多くのメディアが指摘するように、この国では女子スポーツがそれまでずっと軽視されていたのだ。ブランカの活躍はそのような中でめざましく、競技を引退してからも人々の高い尊敬を集めることになった。
しかし2019年8月24日、自身2度目となる「王室スポーツ功労勲章」を授かったその年、ブランカ・フェルナンデス・オチョアは忽然と姿を消してしまう。
近隣住民が警察にした話によると(のちにBBCが報じているところによれば)、失踪前の彼女の姿が最後に目撃されたのはセルセディリャというマドリード近郊の町で、山へ向かって歩いていたという。その町にブランカは子供のころから住んでいた。
数日にわたり400人にのぼる人々が捜索を行った結果、2019年9月4日にブランカの遺体が見つかった。現場はマドリードにまたがるグアダラマ山脈の「ラ・ペニョータ山」山頂付近で、勤務時間外だった治安警備隊隊員が発見したとBBCは伝えている。
ブランカ・フェルナンデス・オチョアの身に何が起きたのか? 兄のルイス・フェルナンデス・オチョアはスペイン放送協会(RTVE)のドキュメンタリー作品『El viaje. La medalla de la salud mental』(2023)のなかで、彼女が子供のころから双極性障害を抱えていたことを明かしている。
兄ルイスがそのドキュメンタリーで語ったところによれば、子供のころのブランカはつねに落ち着きがなかったので、のちに双極性障害と診断されると一家は妙に納得したという。そんな障害がありながらも、ブランカは競技で優れた実力を発揮することができた。
スキー競技は彼女に多くの成功をもたらしたが、同時に多くのプレッシャーももたらした。とりわけ、兄のフランシスコと比べられる場合がそうだった。ブランカの妹ローラ・フェルナンデス・オチョアは語っている:「姉は兄フランシスコと比べられることを苦手としていて、できれば目立ちたくないようでした」。ブランカの兄ルイスもこう語っている:「妹は重圧を感じていました。かわいそうに。彼女は成功に飢えていたのです」
「ブランカに何か異変が持ち上がっていると私たちが最初に気づいたのは、彼女がオリンピックでメダルを獲り、そして引退した1992年ごろのことでした。(…)彼女はいわば縮み始め、自身のうちに引きこもっていきました。自分に起きている変化がうまく理解できていなかったようです。誰からも気づかれないように、いつも帽子とメガネを着けていました」と、妹のローラは同ドキュメンタリーで語っている。
「秋になると、ブランカは決まって二日か三日、私たちの前から姿をくらました。私たちは一家総出で探して、それが秋の恒例行事となっていましたね。それも無くなってしまいましたが……」と、兄ルイスは言葉を詰まらせた。
スペイン紙『エル・ムンド』はブランカの死因が薬物の過剰摂取だったとしている。
担当した検視官によると、その死は事故によるものではなく、当時報道されたように滑落が原因でもないという。遺体にはあざも外傷も認められず、発見時の姿勢にとくに不審なところはなかったと『エル・ムンド』紙は伝えている。
スペインで活躍する多くのトップアスリートがブランカの葬儀に参列し、同国を代表するスキー選手との別れを惜しんだ。遺灰はグアダラマ山脈の中央に連なるシエテ・ピコス山にまかれたが、そこは彼女の好きな山だったという。
2022年3月、ローラ・フェルナンデス・オチョアを代表として、姉ブランカから名前をもらった「スポーツ選手支援のためのブランカ基金」が設立された。この団体は、引退を迎えたトップアスリートたちのセカンドキャリアを助けることを活動趣旨としており、これまで心血を注いできた競技の外にも、新しく仕事や機会を得られるような支援を行っているという。
ブランカ・フェルナンデス・オチョアはあまりにも早く私たちの前からいなくなってしまったが、そこに至るまでの長い間、彼女の内面で激しい戦いが繰り広げられていたことが推し量られる。ただ、現在ではアスリートの心の問題について、かなり光が当てられるようになってきた。ブランカのような痛ましい死を少しでも減らしたいという思いが、スポーツ界全体に広がっているのかもしれない。