元NBAバスケ選手ヤオ・ミンをめぐる陰謀論:中国で行われた優生学実験の第1号だった?

元プロバスケ選手、ヤオ・ミン(姚明)
バスケットボールのヤオ・ミン選手
「ヤオ・ミン大作戦」とは?
優生学的プログラム
スーパーアスリート軍団
ヤオ・ミンの両親
高身長の夫婦
平均よりずっと大きな赤ちゃん
一人っ子政策の時代
遺伝子操作は無し
最高の組み合わせを求めて
プログラムは中止
ヤオ・ミンは大スターに
キャリアの始まり
NBAのヒューストン・ロケッツへ
殿堂入り
中国代表としての活躍
ヤオ・ミンの影響
スポーツの普及に尽力
中国の偉大なバスケットボール大使
元プロバスケ選手、ヤオ・ミン(姚明)

ヤオ・ミン(姚明)は中国出身の元バスケットボール選手で、同国で最も尊敬されるアスリートの1人である。NBAのヒューストン・ロケッツで8シーズンプレーし、オールスターに8回出場した。

バスケットボールのヤオ・ミン選手

ある陰謀論によると、そんな彼の生い立ちに国家的プロジェクトが関わっているという。

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「ヤオ・ミン大作戦」とは?

その陰謀論は、アメリカのジャーナリスト、ブルック・ラーマーが2005年に上梓した『ヤオ・ミン大作戦』というノンフィクションで世に問われた。著者は『ニューヨーク・タイムズ』紙や『ナショナル・ジオグラフィック』誌といった権威あるメディアに寄稿しているジャーナリストである。

優生学的プログラム

著者の主張によれば、ヤオ・ミンは中国政府の優生学的プログラムの最初の実験台であり、秀でた能力を持つ男女からさらに秀でた能力を持つエリート選手を生み出そうとする試みだった。これはバスケットボールに限ったものではなく、その他さまざまなスポーツにおいても実施が検討されていたという。

スーパーアスリート軍団

著者ブルック・ラーマーによれば、このプログラムの目的はスーパーアスリート軍団をつくることにあった。中国共産党政権はスーパーアスリート軍団をプロパガンダの一手段と位置付け、この場合はスポーツという分野で「強い中国」という対外的イメージを形成しようとしたのである。

ヤオ・ミンの両親

この陰謀論的プログラムにおいてまず重要な役割を担うのが、ヤオ・ミンの両親、父ヤオ・ジーユァン(姚志遠)、母ファン・フェンディー(方鳳娣)だ。2人とも現役時代は一流のバスケットボール選手で、中国代表チームでプレーした経歴を持つ。陰謀論によれば、このカップルは当局の命令によって一緒になり、そして未来のスター選手、ヤオ・ミンが生まれたという。

 

高身長の夫婦

父ヤオ・ジーユァンは身長195cm、上海のチームで活躍した選手で、母ファン・フェンディーは身長188cm、中国代表チームのキャプテンをつとめた経歴の持ち主である。

平均よりずっと大きな赤ちゃん

ヤオ・ミンはこの2人のあいだに、1980年9月12日、上海で生まれた。生まれた時の身長は61cmで体重は5kg、当時の中国における新生児の平均より倍ほども大きかった。

一人っ子政策の時代

ヤオ・ミンが生まれた1980年はちょうど中国の一人っ子政策が始まったころにあたり、それでヤオ・ミンも一人っ子である。

遺伝子操作は無し

著者のブルック・ラーマーは、その優生学的プログラムにおいて遺伝子操作はなかったはずだとしている。

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最高の組み合わせを求めて

というのも、ヤオ・ミンが生まれた当時は遺伝子操作の技術が確立していなかったからである。実際のところは、ちょうど19世紀にメンデルがエンドウマメの交配実験を行ったときのように、背が高くてバスケットボールの才能がある子供が生まれるよう、理想的な条件を満たす男女を結婚させるということだったのだろう。

プログラムは中止

しかしこの陰謀論的プログラムは、ラーマーの説によると、ある2人の政府高官が話し合った結果、内密に中止されたという。

ヤオ・ミンは大スターに

いずれにせよはっきりしているのは、ヤオ・ミンがNBAで活躍しバスケットボール界のスターとなり、中国にバスケットボールを普及させたということだ。そのキャリアを振り返ってみよう。

キャリアの始まり

ヤオ・ミンは幼い頃は科学分野に興味を示していたほか、バレーボールなどバスケットボール以外のスポーツにも親しんでいた。やがて、プロ選手であった両親のすすめで9才のころからバスケットボールをはじめると、めきめき上達し17才で中国プロバスケットボールリーグ(CBA)の上海シャークスと契約、1999年には中国代表チームにデビューを果たした。

NBAのヒューストン・ロケッツへ

そしてヤオ・ミンは2002年、NBAのヒューストン・ロケッツからドラフト全体1位で指名を受け、祖国の威信を背負ってヒューストンに向かうのだった。

 

殿堂入り

NBA入りを果たしたヤオ・ミンは、同リーグ史上4番目に高いその身長を活かして一年目から活躍を繰り広げ、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。その後もオールスターに8度選ばれ、うち7回はスターターとして出場した。キャリア平均19得点、9.2リバウンド、1.9ブロックという成績を残して引退すると、2016年に米バスケットボール界の殿堂入りを果たした。

中国代表としての活躍

先に触れたように、ヤオ・ミンは1999年に代表デビューを飾っている。中国代表としての彼は、出場したすべての大会で個人選手としてチーム最高得点を挙げ、2004年アテネオリンピックと2008年北京オリンピックでは母国選手団の旗手をつとめた。

ヤオ・ミンの影響

ヤオ・ミンがもたらした影響は大きかった。NBAの試合は中国のケーブルテレビチャンネルAZNで放送されるようになり、NBAはプレシーズン戦のいくつかを中国で行うことを決め、NBA公式ウェブサイトの言語に中国標準語が加わった。

スポーツの普及に尽力

ヤオ・ミンは現在、中国バスケットボール協会の会長として、同国におけるバスケットボールのさらなる普及を推進している。また、中国のバスケットボールを世界に発信している。

中国の偉大なバスケットボール大使

ブルック・ラーマーの陰謀論はさておくとして、たしかに言えるのは、ヤオ・ミンは当局の期待に十分すぎるほど応え、中国におけるNBA人気、バスケットボール人気に火をつけた人物だということだ。

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