北米サッカーリーグ(1968〜1984年)に集まった世界のスター選手たち

北米プロサッカーリーグの歴史
北米サッカーリーグ(NASL)の試み
メジャーリーグサッカーの先駆
錚々たるレジェンドたち
ペレ
ヨハン・クライフ
フランツ・ベッケンバウアー
ジョージ・ベスト
エウゼビオ
カルロス・アウベルト
ゴードン・バンクス
ゲルト・ミュラー
ヨハン・ニースケンス
テオフィロ・クビジャス
ビョルン・ノルドクヴィスト
ロベルト・カバーニャス
ジョルジョ・キナーリャ
北米プロサッカーリーグの歴史

近年米国ではメジャーサッカーリーグ(MLS)の人気が高まっており、ベッカム、メッシ、イブラヒモヴィッチ、ルーニーをはじめ、欧州の有名選手が数多くアメリカに渡っている。しかし、北米におけるプロサッカーリーグの歴史を紐解くと、MLS誕生以前にも意欲的な試みが存在し、世界のスーパースターたちを米国に集めていたことがわかる。

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北米サッカーリーグ(NASL)の試み

その試みとは、1968年から始まった北米サッカーリーグ(NASL)である。その人気は1970年代後半にピークに達し、24チームがリーグ戦を競い(うち2チームがカナダのチーム)、各試合の平均入場者数は1万3,000人を超え、テレビ中継も行われた。しかし、1980年に始まった米国の景気後退を背景に、多くのクラブが経営に失敗、リーグは1985年3月28日に解散した。

メジャーリーグサッカーの先駆

創設から17シーズンで消滅したNASLだったが、この時の経験をもとに1993年に現在のMLSが誕生したのだ。

錚々たるレジェンドたち

そんなNASLを語るうえで外せない要素は、欧州や南米といったサッカー王国からやってきた錚々たるレジェンドたちのことである。今回はMLSの前身、NASLで活躍したレジェンド選手たちを見てゆこう。

ペレ

「サッカーの王様」ことペレは、長きにわたりブラジルのサントスFCでプレーしていたが、1975年に米国にわたり、NASLのニューヨーク・コスモスに加入する。同クラブで1977年に現役最後の試合を戦い、選手としての偉大なキャリアに終止符を打った。

ヨハン・クライフ

オランダ代表の絶対的なスターにして「トータル・フットボール」の象徴的選手であり、「クライフ・ターン」の生みの親でもあるヨハン・クライフは、アヤックス・アムステルダム(オランダ)、FCバルセロナ(スペイン)でその才能を遺憾なく発揮した後、新天地として米国を選び、1979年はロサンゼルス・アズテックスで、1980年から1981年まではワシントン・ディプロマッツでプレーした。

フランツ・ベッケンバウアー

「皇帝」ことフランツ・ベッケンバウアーは、およそ14年間にわたってバイエルン・ミュンヘン、そして西ドイツ代表のDFとして活躍した後、1977年に米国にわたり、1980年までニューヨーク・コスモスの選手としてプレーした。当時同クラブに在籍していたペレとは1シーズンだけチームメイトとなった。いったんドイツに戻ってハンブルガーSVで2年を過ごし、1983年ふたたび渡米、またしてもニューヨーク・コスモスでプレーし、同クラブで現役最後の試合を終えた。

ジョージ・ベスト

ジョージ・ベストは北アイルランド出身のFWで、当時アイドルなみの人気を博していた。1960年代にマンチェスター・ユナイテッドで大活躍したレジェンドである。同クラブを1974年に退団後、ロサンゼルス・アズテックス(1976〜1978年)、フォート・ローダーデール・ストライカーズ(1978〜1979年)、サンノゼ・アースクエイクス(1980〜1981年)とNASLの各クラブを渡り歩いた。

エウゼビオ

ポルトガル史上最高のサッカー選手とされるエウゼビオは、SLベンフィカでの輝かしい経歴やポルトガル代表としての伝説的な活躍でファンの記憶に残っているが、北米サッカーリーグの4つのクラブでもプレーしている。ボストン・ミニットメン、トロント・メトロス・クロアチア、ラスベガス・クイックシルバーズ、ニュージャージー・アメリカンズである。

カルロス・アウベルト

カルロス・アウベルトは60年代から70年代にかけて活躍したブラジルのDF。1970年W杯メキシコ大会決勝のイタリア戦、ペレからのアシストで決めたゴールがサッカーファンの記憶に深く刻まれている。ペレとは長い付き合いで、ブラジル代表、サントスFC(ブラジル)、そして北米サッカーリーグ時代はニューヨーク・コスモスのチームメイトだった。

ゴードン・バンクス

史上最も偉大なゴールキーパーがソ連のレフ・ヤシンだとすれば、その次に偉大なのはイングランドのゴードン・バンクスだろう。1970年W杯メキシコ大会、ブラジル相手に鉄壁のごとく立ちはだかり、ペレの決定的なシュートを阻止したスーパーセーブはいまも語り草となっている。バンクスはイギリスのチェスターフィールドFC、レスター・シティFC、ストーク・シティFCに所属、レンタル移籍で1967年にクリーブランド・ストーカーズに加入した。1972年に自動車事故で右目の視力を失い引退を余儀なくされるも、その後片目の視力がないまま、1977年から1978年まで2シーズンを北米サッカーリーグのフォート・ローダーデール・ストライカーズでプレーした。

ゲルト・ミュラー

ドイツ出身のゲルト・ミュラーはエース・パイロットのごとくアクロバティックにゴールを量産し、「爆撃機」の異名をとった。バイエルン・ミュンヘンのスター選手として長らく活躍、607試合に出場して566ゴールを挙げた。西ドイツ代表としては62試合で68ゴールを記録。34歳のときに北米サッカーリーグへ移籍し、フォート・ローダーデール・ストライカーズで1979年から3シーズンプレー、やはりゴールを量産してファンの心をつかんだ。同クラブに所属していたジョージ・ベストとは1シーズンだけチームメイトとなった。

ヨハン・ニースケンス

ヨハン・ニースケンスのキャリアは同じくオランダ出身のヨハン・クライフとよく似ており、1970年代にアヤックス・アムステルダム、FCバルセロナの中心選手として活躍し、その後北米サッカーリーグを経験している。ニューヨーク・コスモス(1979〜1984年)、フォート・ローダーデール・ストライカーズ(1985年)、ミズーリ・コメッツ(1985〜1986年)。ニースケンスは今年10月6日にアルジェリアで亡くなった。73歳だった。

 

テオフィロ・クビジャス

リマ出身のMFテオフィロ・クビジャスは、ペルー・サッカー史上の最重要選手に位置づけられている。1966年にアリアンサ・リマでプロデビューを果たし、1973年に欧州に移籍、FCバーゼル(スイス)、FCポルト(ポルトガル)でプレー、その後北米サッカーリーグのフォート・ローダーデール・ストライカーズ(1979〜1983年)、サウス・フロリダ・サン(1985〜1986年)、マイアミ・シャーク(1989年)でプレーしている。

ビョルン・ノルドクヴィスト

スウェーデン出身のDFでアイスホッケー選手でもあったビョルン・ノルドクヴィストは、自国のクラブでプレーしたのちに、1979年から1981年にかけて北米サッカーリーグのミネソタ・キックスでプレーした。その後スウェーデンに戻って現役を引退している。

ロベルト・カバーニャス

キャリアの後半にさしかかってから北米に渡ったスター選手たちとは異なり、パラグアイ出身のロベルト・カバーニャスは1979年にパラグアイのセロ・ポルテーニョでデビューを果たすと、1980年から1984年にかけて北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスでプレーしている。1983年には25ゴールを挙げて得点王に輝いた。

ジョルジョ・キナーリャ

ニューヨーク・コスモスのゴールスコアラーにはほかに、イタリア出身のジョルジョ・キナーリャがいる。1976年から1983年かけて同クラブでプレーした。SSラツィオ(イタリア)からの移籍である。北米サッカーリーグでは合計242得点を挙げ、これは同リーグの歴代最多記録となっている。

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