サッカー代表で医師免許保有、さらにサッカークラブ経営を立て直して優勝を手にした伝説の選手とは
ブラジル出身の偉大なサッカー選手と言えば、誰を思い浮かべるだろうか。ペレ、ロナウジーニョ、ロナウド、カフー、ダニ・アウベス、ネイマール……。もちろん彼らが今日のサッカーに大きな影響を与えていることは疑いない。
しかし、サッカーというスポーツのシステムを変えた稀有な選手がいる。元ブラジル代表のソクラテスだ。1990年代にPSGで輝いたライの兄でもあるソクラテスは、史上最高のミッドフィールダーの一人であるだけでなく、ブラジルサッカーを大きく変えた運動「コリンチャンス民主主義」のリーダーの一人である。
ヘッドバンドと長いパーマヘアーが特徴的なソクラテスは、2つの理由でサッカーの歴史に名を残した。まず、最も明白なのは卓越したボールコントロールと並外れたテクニックだ。 2つ目は、所属クラブのコリンチャンスで革新的な経営方式を生み出し、それがサッカーにとどまらず政治的な運動にまで波及したことだ。
ソクラテスは、1954 年にブラジル北部のベレンで生まれた。父がギリシア哲学の教授だったため、 古代ギリシアの哲学者ソクラテスの名前がつけられた。ちなみに、5人の兄弟のうちの2人も、古代ギリシアの人名からソフォクレスとソステネスと名付けられている。
ソクラテスは類まれな知性を備えた優秀な学生だった。好奇心旺盛でありつつ思慮深い性格で、思春期の頃にはすでにブラジルの政治制度や独裁政権について不満を抱いていたという。
父親の転勤に伴いサンパウロ州のリベイラン・プレトに移住した後、市内の医学校に入学。当時16歳のソクラテスは、サッカー選手と聞いて想像するようなキャリアからは」かけ離れた生活を送っていた。なんと、リベイラン・プレトにやってくるまで、一度もクラブチームでサッカーをプレーしたことがなかったという。
リベイラン・プレトで、ソクラテスはサッカーへの情熱に目覚めることになる。しかし、サッカーでも才能を発揮したものの、大学での勉強は続けていたため、チームメイトと同じように練習に専念することはできなかった。それでも、両方の分野で優秀な成績を収め、1971 年にはリベイラン・プレトに本拠地を置くボタフォゴFCのユースチームに入団した。
若きソクラテスは、ボタフォゴで類稀なサッカーの才能を開花させることになる。大学で医学の勉強を続ける一方、卓越したテクニックと戦術眼でユースチームのコーチたちを驚かせた。試合で好成績を収めながら、授業のために練習を欠席する若きソクラテスは、異次元の才能をもつダイヤモンドの原石だった。
1974年、ソクラテスは医師になる夢を諦めずに勉強を続けながら、20歳でボタフォゴのプロチームに入団。 1976年にボタフォゴはブラジル1部のセリエAに昇格を果たす。同年、サンパウロ州選手権(カンピオナート・パウリスタ)でソクラテスは15ゴールを決め、22歳でクラブ得点王に輝いた。
1977年、昇格2シーズン目に臨んだソクラテスはその才能を遺憾なく発揮した。名門サントスとの熱戦では攻撃を牽引し、ボタフォゴに3-2で勝利をもたらした。まだ医学生でもあった23歳のソクラテスが世界最高のサッカー選手へと歩み始めた瞬間だった。
1977 年はソクラテスにとって極めて重要な年になった。ボタフォゴで素晴らしいパフォーマンスを見せたことで、多くの国内クラブがこの若きミッドフィールダーに興味を持ち始めたのだ。サッカー選手としてブラジル国内で名声を轟かせる一方、1977 年10 月には、名門サンパウロ大学でついに医師免許を取得している。
1978年、24歳のソクラテスは前年のサンパウロ州選手権王者コリンチャンスに移籍。リーグ初戦からチームのレギュラーとして活躍した。1979年には州選手権で自身初のメジャータイトルを獲得し、ブラジル代表にも初選出されている。
1981-1982シーズンまでは、コリンチャンスとソクラテスにとってすべてが順調だった。ソクラテスは1980年の州選手権で最優秀ミッドフィールダーに選ばれた。しかし翌シーズン、コリンチャンスは勢いを失い、全国選手権では26位に終わった。その後、コリンチャンスは2部に降格してしまう。
1982年、コリンチャンスはどん底の状態だった。蔓延する汚職、独裁的な経営、成績不振などから、コリンチャンスの経営陣と選手たちは常に対立していたのだ。そこで同年、ソクラテスはクラブの経営モデルを革新することを決意する。
そして、チームメイトのゼ・マリア、ウラジミール、ワルテル・カザグランデらとともに、ソクラテスは「コリンチャンス民主主義」の取り組みを始めた。それは、選手によるクラブの自主的経営システムであり、クラブの運営に関わるあらゆる決定を選手による投票に委ねるというものだった。
これにより、選手たちは単なるプレイヤーとしてだけでなく、経営陣の一部としてクラブとより主体的な関わりを築くことになった。
「私たちは単なる雇われの選手という立場を超えて、クラブの経営戦略の一翼を担いたいと考えました。そのため、選手と経営陣の関係を見直すことにしたのです。クラブ全体に関わるあらゆる事項が投票にかけられることになりました」とソクラテスは説明する。
この革新的な経営手法の有効性はたちまち証明されることとなった。コリンチャンスは2部リーグで優勝し、全国選手権の1部に復帰した。 1982年末には州選手権決勝戦に進出し、優勝候補サンパウロと対決する。ファーストレグで1-0、セカンドレグで3-1と両方で勝利し、コリンチャンスはチャンピオンとなった。そこでの活躍が認められたソクラテスは、ブラジルのサッカー専門誌『プラカール』の年間最優秀選手に選出されている。
翌年、コリンチャンスは州選手権決勝で再びサンパウロと相まみえ、見事連覇を果たした。「コリンチャンス民主主義」は間違いなく成功を収めており、選手全員が全力で取り組んだことで掴んだ結果だった。
腐敗や汚職に対するコリンチャンスの抵抗は、同時にブラジル全土への政治的なメッセージにもなった。「民主主義」と書かれたユニフォームを着た選手たちの活躍は、独裁的な政府に対する鋭い異議だと受け取られたのだ。こうして、「ドクター」のあだ名で親しまれたソクラテスは、ブラジルの独裁政権に抵抗する象徴的なアイコンになっていった。
ソクラテスは後に、「コリンチャンス民主主義」がクラブの精神を永遠に変えたのだと語っている。「我々は選手の妻や子供たちも含めた大家族でした。どの試合もお祭り気分の中で行われました。我々はピッチ上で自由のため、国を変えるために戦っていたのです。このような環境のおかげで、自分たちの技術を自信を持って発揮できるようになりました」
1984年、ソクラテスは活動の一環として、議会が自由な大統領選挙を復活させなければ、ブラジルでサッカーを継続しないと表明した。しかし、この取り組みは成功せず、ソクラテスは国外移籍することになってしまった。結局、ヨーロッパに渡り、イタリアの名門フィオレンティーナに加入することになった。
2年間のイタリアでのキャリアは順風満帆とはいかなかった。25試合で6ゴールと不調なシーズンを過ごし、後にイタリアサッカーについて不満を漏らしている。「結果は操作されており、リーグ全体が腐敗している。選手も審判もすべてだ! ある種のマフィアだよ。非常によく組織されたマフィアだ」
ソクラテスはブラジル代表での22ゴールを含む316ゴールを決めた後、1989年に35歳で現役を引退した。ブラジル代表では、1982年と1986年のワールドカップでは準々決勝で敗退したが、1983年のコパ・アメリカで決勝に進出している。結局、代表ではタイトルを獲得できなかったが、ソクラテスが歴史に残る選手であり、代表の偉大なキャプテンであることに変わりはない。
ソクラテスは今日でも多くのブラジル人、そして何よりもコリンチャンスのファンにとってのヒーローであり続けている。その輝かしいキャリアと才能に加えて、彼の知性や勇気はサッカーを超えてブラジルの歴史に刻まれてきた。ソクラテスは傑出したサッカー選手として、そして「コリンチャンス民主主義」の原点となった偉人として人々の記憶に残り続けるだろう。