安全ピンで逃した金メダル:走幅跳選手イヴァナ・スパノヴィッチ、ロンドンの夏
イギリスの「ロンドンスタジアム」は数秒間、水を打ったように静まり返った。観客たちは理解できなかった。何が起きたというのだろう? なぜ、走り幅跳びで最も遠く跳んだ選手に、金メダルどころかそもそもメダルすら与えられないのだろう?
やがて静寂は破られる。会場に詰めかけた観客をはじめ全世界の視聴者は、イヴァナ・スパノヴィッチがゼッケンのせいで金メダルを逃したことを知らされたのだ。
それは八月の暑い一日のことだった。2017年にイギリス・ロンドンで行われた、第16回世界陸上競技選手権大会である。
セルビアからやってきたイヴァナ・スパノヴィッチは、前年2016年のリオデジャネイロ・オリンピックで銅メダルを獲得しており、この大会では優勝候補の一人とされていた。
競技はドラマティックな展開を見せた。まるで出場選手たちが申し合わせでもしたかのように、イアヴァナ・スパノヴィッチの最後のジャンプで金メダルの行方が決まるという筋書きになったのである。
イヴァナ・スパノヴィッチは助走に入った。迷いのない堂々とした足取りと、ブリトニー・リース(アメリカ)が直前に出していた暫定1位の7m02を自分は超えられるという確信をもって、最後のジャンプに向かっていった。
スパノヴィッチの跳躍はじっさい素晴らしかった。7mを超えていることは一目で見てとれた。踏み切りも問題なし。あとは7m03に達しているかどうかの計測を待つのみだったが、それも見たところ超えていそうだった。
正式な計測結果を待たずしてセルビアじゅうで快哉が叫ばれ、スタンドの観客たちはこの跳躍に(それは陸上史に燦然と輝くことだろう)惜しみのない拍手を送った。
ほどなくして電光スクリーンに記録が掲示された。6m91。イヴァナ・スパノヴィッチは金メダルを逃したどころか、ダリヤ・クリシナ(ロシア)、ティアナ・バートレッタ(アメリカ)の記録にも届かなかったのだ。
競技の経過を見守っていた人々は狐につままれたような気分だった。たしかに7mは超えていた、では、6m91という記録はどこから出てきたのだろう?
その答えはスローモーションのリプレイ映像にあった。イヴァナ・スパノヴィッチから金メダルを奪い去った犯人は、背中のゼッケンだった。
イヴァナ・スパノヴィッチは申し分のない踏み切りをしたが、まさに空を飛んでいるときにゼッケンの下部を留めていた安全ピンの一つが外れた。背中からひらりと離れたゼッケンは、スパノヴィッチの着地点から10cmあまり手前の砂を払ったのである。
スパノヴィッチははじめ、この結果を受け入れることができなかった。彼女の顔に浮かんだ怒りと当惑は、何が起こったのかを知らされると呆然としたものにかわり、最後に涙にかわった。
恨めしい安全ピンのせいで、今大会にかけてきた数年間の準備が台無しになってしまった。セルビア陸上競技連盟は判定に抗議したが、国際陸上競技連盟(IAAF)はこれをきっぱりとはねつけ、6m91が適切な記録であるとした。
ところでIAAFはその一年後の2018年、走り幅跳びの競技時に背番号を外すことを認めている。これはイヴァナ・スパノヴィッチやセルビア陸上界にとって、いささか釈然としない対応だったかもしれない。
かくのごとく、イヴァナ・スパノヴィッチは一本の安全ピンのせいで敗退することになり、その午後の舞台の思いがけない主役となった。それから6年あまり経った今でも、とりわけ暑い日の昼下がりなどには、走り幅跳び競技史におけるこの一挿話が人々の口の端にのぼるとか、のぼらないとか。