彼氏のモラハラ、瀕死のウイルス感染、カムバックを断念…… テニスのマリオン・バルトリに何が起きたのか?

フランスを代表する女子テニス選手
出生地
父がコーチ
2000年にプロデビュー
2001年全仏オープン出場
2006年WTAタイトル獲得
トップ20入り
2007年ウィンブルドン準優勝
2011年の活躍
2013年の大躍進
ウィンブルドン決勝戦
ストレート勝ち
プロ引退
「夢を現実に」
すばらしい戦績
モラハラ彼氏
「ダイエットに終わりはなかった」
テレビの仕事
ウイルスによる激痩せ
「体はウイルスと戦っている」
死の恐怖
回復
頓挫した復帰計画
コロナで中断したコーチ業
結婚と出産
ファッションへの情熱
住まいはドバイ
家庭とテニスの両立
フランスを代表する女子テニス選手

マリオン・バルトリ(Marion Bartoli)は、フランスを代表する優れたテニス選手である。ウィンブルトン選手権優勝も経験し、素晴らしいキャリアを築いた。しかしその後は、挫折の日々が続いている。その半生をたどってみよう。

出生地

マリオン・バルトリは1984年10月2日、ル・ピュイ=アン=ヴレで生まれた。オーベルニュ地方の南東に位置し、火山性の岩山が点々とそびえて特徴的な景観をなす古い街である。ただし、一家のルーツはコルシカ島にある。

父がコーチ

バルトリは6歳のとき、父ウァルター(Walter)の指導のもと、テニスを始める。

2000年にプロデビュー

プロデビューは2000年で、そこから世界ランキングを順調に駆け上がることになる。

2001年全仏オープン出場

2001年、全仏オープンのワイルドカード枠で初の四大大会出場を果たす。しかし、一回戦でカタリナ・カスターニョ(コロンビア)に敗れてしまう。

2006年WTAタイトル獲得

バルトリが初のWTAタイトル獲得を果たしたのは、2006年のことだった。ニュージーランド・オークランド大会(ASBクラシック)の決勝、当時21歳のバルトリはベラ・ズボナレワ(ロシア)を下した。それが2006年1月のことで、10月にはジャパン・オープン・テニス選手権で二つ目のWTAタイトルを獲得する。

トップ20入り

その年、バルトリは年間ランキング17位となり、初のトップ20入りを果たす。

2007年ウィンブルドン準優勝

翌年、バルトリは四大大会で大躍進する。ウィンブルドンの準決勝でジュスティーヌ・エナン(ベルギー)を下し、決勝に駒を進めるのだ。しかし決勝ではビーナス・ウィリアムズ(アメリカ)が絶対的な強さを証明することになった。とはいえ、シーズンが終わってみると、ランキングは10位にまで上昇していた。

2011年の活躍

2009年全豪オープンの準々決勝まで駒を進めたバルトリは、2011年全仏オープンでは準決勝まで、2011年ウィンブルドンでは準々決勝まで勝ち進んだ。すでに7つのWTAタイトルを獲っていたバルトリだが、まだ四大大会を制覇したことはなかった。

2013年の大躍進

2013年は彼女にとって、努力が報われた年といえる。この年、四大大会の決勝戦に二度目の出場を決めるのだ。ウィンブルドンの決勝である。

ウィンブルドン決勝戦

対するはザビーネ・リシツキ(ドイツ)。バルトリは今度は優勝を逃さなかった。

ストレート勝ち

バルトリは1セットも落とすことなく、ストレートで勝負を決めたのである。見事というほかない幕切れだった。

プロ引退

この劇的なウィンブルトン優勝が、バルトリのキャリアにおけるハイライトである。そのわずか40日後、彼女はプロ引退を発表することとなるのだ。

「夢を現実に」

引退を発表した記者会見では次のように語っている。「私は夢を現実のものにしました。そのことはこれからもずっと私を支えてくれるでしょう。でも、今はもう身体がもたないのです」

すばらしい戦績

バルトリはすばらしい成績を残して引退した。シングルの優勝が8つ、ダブルスでの優勝が3つ、現役最高ランキングは第7位だった。

モラハラ彼氏

引退後の2015年、マリオン・バルトリはモラハラ気質のボーイフレンドのせいでやつれてしまったと『ニューヨーク・タイムズ』紙が報じている。

「ダイエットに終わりはなかった」

「ボーイフレンドはそれこそ毎日、重すぎる、太りすぎ、などの心ない言葉を私に浴びせてきました。それで私はダイエットを始めましたが、キリがなかったんです」と同紙に語っている。

テレビの仕事

その頃、バルトリはテレビでコメンテーターの仕事をしており、全仏オープンではインタビュワーをつとめるなど、第二のキャリアを築いていた。そんな彼女をさらなる逆境が襲う。

ウイルスによる激痩せ

2016年、ガリガリに痩せたマリオン・バルトリの写真が雑誌に載り、世界のテニスファンをぎょっとさせた。といっても、ダイエットの成果ではない。バルトリは『パリ・マッチ』誌にて自身のウイルス性疾患の病状を公表し、食事がとれていないことを明かしたのだ。

「体はウイルスと戦っている」

「ウイルスに感染しました。体は闘っています。そのせいで私は何も食べることができません。ウィンブルドンが終わったら、イタリアの診療所に行かなければなりません」と、バルトリは『パリ・マッチ』のインタビューで語っている。彼女はウィンブルドンのエキシビジョン・マッチに出場の予定だったのだ。しかし、それも結局辞退することになる。

死の恐怖

バルトリはその当時、死の恐怖をひしひしと感じてたという。彼女はイギリスの放送局ITVの番組『This morning』で語っている。「心臓が急に止まってしまうかもしれない。そのような不安に耐え抜くのは、大変きついことです」

回復

バルトリは入院し、病状は回復に向かっていった。「私はゆっくりとですが治っています」と、バルトリはフランスのラジオ局RTLにて語っている。のちに英『ザ・タイムズ』紙に明かしたところでは、彼女は新型インフルエンザウイルス(H1N1)に感染していたという。

頓挫した復帰計画

体調が万全に戻ると、バルトリはテニスバッグに積もった埃をはたき、2018年初めの現役復帰を目指して始動する。だが、ケガの問題があり、2018年6月には復帰断念を発表する。

コロナで中断したコーチ業

2019年末ごろ、マリオン・バルトリはコーチ業に挑戦し、エレナ・オスタペンコ(ラトビア)のコーチに就任する。この指導関係は、新型コロナウイルスのパンデミックでWTAツアーが中止になったことを受けて解消された。

結婚と出産

その頃、バルトリはモロッコ系ベルギー人のサッカー選手であるヤヒヤ・ブーメディエンヌと結婚し、第一子を出産する。カミリヤ(Kamilya)と名付けられた女の子の誕生後、バルトリはコーチ業を再開し、再びエレナ・オスタペンコ選手と組み始める。

ファッションへの情熱

バルトリの情熱は、テニスだけでなくファッションにも注がれている。2016年、スポーツブランドFILAとコラボし、「Love FILA」と名付けたコレクションのデザインを手がけた。

住まいはドバイ

バルトリは現在、ドバイに住んでいる。現地の英語新聞『ガルフ・ニュース』が2021年に報じたところによると、当地でテニスアカデミーを開講予定とのこと。

家庭とテニスの両立

また、現在はテレビのコメンテーターとしても活動しており、家族との時間を満喫しながらテニスの啓蒙活動も継続中といえる。

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