彼氏のモラハラ、瀕死のウイルス感染、カムバックを断念…… テニスのマリオン・バルトリに何が起きたのか?
マリオン・バルトリ(Marion Bartoli)は、フランスを代表する優れたテニス選手である。ウィンブルトン選手権優勝も経験し、素晴らしいキャリアを築いた。しかしその後は、挫折の日々が続いている。その半生をたどってみよう。
マリオン・バルトリは1984年10月2日、ル・ピュイ=アン=ヴレで生まれた。オーベルニュ地方の南東に位置し、火山性の岩山が点々とそびえて特徴的な景観をなす古い街である。ただし、一家のルーツはコルシカ島にある。
バルトリは6歳のとき、父ウァルター(Walter)の指導のもと、テニスを始める。
プロデビューは2000年で、そこから世界ランキングを順調に駆け上がることになる。
2001年、全仏オープンのワイルドカード枠で初の四大大会出場を果たす。しかし、一回戦でカタリナ・カスターニョ(コロンビア)に敗れてしまう。
バルトリが初のWTAタイトル獲得を果たしたのは、2006年のことだった。ニュージーランド・オークランド大会(ASBクラシック)の決勝、当時21歳のバルトリはベラ・ズボナレワ(ロシア)を下した。それが2006年1月のことで、10月にはジャパン・オープン・テニス選手権で二つ目のWTAタイトルを獲得する。
その年、バルトリは年間ランキング17位となり、初のトップ20入りを果たす。
翌年、バルトリは四大大会で大躍進する。ウィンブルドンの準決勝でジュスティーヌ・エナン(ベルギー)を下し、決勝に駒を進めるのだ。しかし決勝ではビーナス・ウィリアムズ(アメリカ)が絶対的な強さを証明することになった。とはいえ、シーズンが終わってみると、ランキングは10位にまで上昇していた。
2009年全豪オープンの準々決勝まで駒を進めたバルトリは、2011年全仏オープンでは準決勝まで、2011年ウィンブルドンでは準々決勝まで勝ち進んだ。すでに7つのWTAタイトルを獲っていたバルトリだが、まだ四大大会を制覇したことはなかった。
2013年は彼女にとって、努力が報われた年といえる。この年、四大大会の決勝戦に二度目の出場を決めるのだ。ウィンブルドンの決勝である。
対するはザビーネ・リシツキ(ドイツ)。バルトリは今度は優勝を逃さなかった。
バルトリは1セットも落とすことなく、ストレートで勝負を決めたのである。見事というほかない幕切れだった。
この劇的なウィンブルトン優勝が、バルトリのキャリアにおけるハイライトである。そのわずか40日後、彼女はプロ引退を発表することとなるのだ。
引退を発表した記者会見では次のように語っている。「私は夢を現実のものにしました。そのことはこれからもずっと私を支えてくれるでしょう。でも、今はもう身体がもたないのです」
バルトリはすばらしい成績を残して引退した。シングルの優勝が8つ、ダブルスでの優勝が3つ、現役最高ランキングは第7位だった。
引退後の2015年、マリオン・バルトリはモラハラ気質のボーイフレンドのせいでやつれてしまったと『ニューヨーク・タイムズ』紙が報じている。
「ボーイフレンドはそれこそ毎日、重すぎる、太りすぎ、などの心ない言葉を私に浴びせてきました。それで私はダイエットを始めましたが、キリがなかったんです」と同紙に語っている。
その頃、バルトリはテレビでコメンテーターの仕事をしており、全仏オープンではインタビュワーをつとめるなど、第二のキャリアを築いていた。そんな彼女をさらなる逆境が襲う。
2016年、ガリガリに痩せたマリオン・バルトリの写真が雑誌に載り、世界のテニスファンをぎょっとさせた。といっても、ダイエットの成果ではない。バルトリは『パリ・マッチ』誌にて自身のウイルス性疾患の病状を公表し、食事がとれていないことを明かしたのだ。
「ウイルスに感染しました。体は闘っています。そのせいで私は何も食べることができません。ウィンブルドンが終わったら、イタリアの診療所に行かなければなりません」と、バルトリは『パリ・マッチ』のインタビューで語っている。彼女はウィンブルドンのエキシビジョン・マッチに出場の予定だったのだ。しかし、それも結局辞退することになる。
バルトリはその当時、死の恐怖をひしひしと感じてたという。彼女はイギリスの放送局ITVの番組『This morning』で語っている。「心臓が急に止まってしまうかもしれない。そのような不安に耐え抜くのは、大変きついことです」
バルトリは入院し、病状は回復に向かっていった。「私はゆっくりとですが治っています」と、バルトリはフランスのラジオ局RTLにて語っている。のちに英『ザ・タイムズ』紙に明かしたところでは、彼女は新型インフルエンザウイルス(H1N1)に感染していたという。
体調が万全に戻ると、バルトリはテニスバッグに積もった埃をはたき、2018年初めの現役復帰を目指して始動する。だが、ケガの問題があり、2018年6月には復帰断念を発表する。
2019年末ごろ、マリオン・バルトリはコーチ業に挑戦し、エレナ・オスタペンコ(ラトビア)のコーチに就任する。この指導関係は、新型コロナウイルスのパンデミックでWTAツアーが中止になったことを受けて解消された。
その頃、バルトリはモロッコ系ベルギー人のサッカー選手であるヤヒヤ・ブーメディエンヌと結婚し、第一子を出産する。カミリヤ(Kamilya)と名付けられた女の子の誕生後、バルトリはコーチ業を再開し、再びエレナ・オスタペンコ選手と組み始める。
バルトリの情熱は、テニスだけでなくファッションにも注がれている。2016年、スポーツブランドFILAとコラボし、「Love FILA」と名付けたコレクションのデザインを手がけた。
バルトリは現在、ドバイに住んでいる。現地の英語新聞『ガルフ・ニュース』が2021年に報じたところによると、当地でテニスアカデミーを開講予定とのこと。
また、現在はテレビのコメンテーターとしても活動しており、家族との時間を満喫しながらテニスの啓蒙活動も継続中といえる。