悲劇的な事故から30年:元F1世界チャンピオン、アイルトン・セナ
F1世界選手権で3度ワールドチャンピオンを獲得したブラジルのレーシングドライバー、アイルトン・セナ・ダ・シルバ。いまでも最高のF1ドライバーのひとりとして人々に記憶されている。
アイルトンは1960年3月21日、ブラジルのサンパウロに生まれた。4歳にしてすでにカートの運転にたぐいまれな才能を示していたといい、父親もすぐにその才能に気がついた。
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父親のミルトン・セナ(写真左)は以前から自動車好きだった。ミルトンは車のセールスマンだったこともあり、やがて自動車用品工場にも乗り出した人物だ。そんな父に勧められ、アイルトンはモータースポーツ界に飛び込むことになる。アイルトンが最初に運転したカートは芝刈り機のエンジンを使ったもので、父の自作だったという。
9歳の時にはすでに、父親が郊外に所有していた私有地でジープを運転するようになっていた。また、スポーツカーレースをテーマにした日本のアニメ『マッハGoGoGo』もよく見ていたという。
そして13歳の頃にはカートの大会に参戦。1973年7月のデビュー戦で公式戦初勝利を挙げる。以降、多くの大会で優勝さらい、サンパウロ大会(1974年と1976年)のみならず南米大会(1977年と1980年)やブラジル大会(1978年、1979年、1980年)でもタイトルを獲得した。
その次は当然世界大会だ。とはいえ、さすがのセナにとっても世界の壁は厚かったようで、二年連続で二位という結果となってしまった。1年目のエストリル(ポルトガル、1979年)では、最終レースでは一位となったもののポイント数で負け、オランダのピーター・クネに優勝を譲った。2年目のニヴェル(ベルギー、1980年)でも別のオランダ人選手ピーター・ド・ブリュインに敗れた。
カートでの経験を積んだセナに、イギリスのモータースポーツ界から声がかかった。これはF1ドライバーを目指すキャリアの一歩目として一般的な進路だ。
セナの名が世界的に知られるようになったのは1981年、フォーミュラ・フォード1600のシリーズに参加したときのことだ。セナはヴァン・ディーメンのチームに所属して20のレースに参加しうち12で勝利したのだ。記念すべき初勝利は1981年3月15日、ブランズ・ハッチでのことだった。
写真は1988年、アラン・プロストとの一幕
1982年にはフォーミュラ・フォード2000のイギリス選手権とヨーロッパ選手権で優勝。成績は28戦22勝でデニス・ラッシェンのチーム所属、若干22歳での快挙だった。
写真はゲルハルト・ベルガーとの一枚(1991年、エストリル)。
F3時代のセナの成績は輝かしいもので、セナの公式サイトによれば、名門チーム「ウエストサリー・レーシング」のボス、ディック・ベネットをして「アイルトンは無敵だ」と言わしめたという。
実際、F3はセナの独壇場と化していた。1982年にはマシンのテストのためにF3で1戦走っただけのセナが、翌年にはそのF3に本格参戦することになるわけだが、それもそのはず、最初の「テスト走行」で歴史に残るような走りを見せたのだ。
テスト走行でセナはポールポジションを取り、ラップ記録も最速、二位のベンクト・トレダールに13秒差を付けての圧勝だった。この記録のおかげでセナは最終的にF3で優勝、F1に挑戦するきっかけとなった。
そのF1でもセナは時代を作った。驚くべき才能で世界中にその名を轟かせ、圧倒的な記録を樹立したのだ。
F1時代のセナはポールポジションを65回獲得、41勝して3度ワールドチャンピオンとなっている。
セナはウェット路面に強いことでも知られていた。1988年イギリスグランプリでゲルハルト・ベルガーをを抜き去った時は先行していたアラン・プロストにあわや追突というギリギリの所を巧みな運転で乗り切り、伝説となっている。
そのベルガー(写真右)とセナは非常に親しかった。クリストファー・ヒルトンが書いた「セナの思い出」という本の中でベルガーは楽しげにこう語っている:「セナの一番許せない所は、私より速いところだな」
セナの世界タイトル初獲得は日本グランプリだった。技術的問題のせいで16位からのスタートだったが、観衆の予想に反してじわじわと順位を上げ、ついには勝利を手にしたのだ。
そしてセナは1990年と1991年にもF1世界チャンピオンとなり、もはやその勢いは誰にも止められないかと思われた。
だが、1994年5月1日、悲劇が起こった。イモラ・サーキットで行われたシーズン第3戦サンマリノGPでセナは首位をキープし、ラップタイムもレース全体で3番目という速いペースで周回、後ろにはミハエル・シューマッハがついていた。だが、左コーナー「タンブレロ」に入ったところでコントロールを失ってしまう。
セナはそのままコンクリートウォールに激突。致命的な怪我を負ってしまう。
直ちにヘリコプターで病院へと搬送されたが、セナは助からなかった。数時間後に死亡が宣告された。34歳での早すぎる死だった。
セナの母国ブラジルは国中が悲しみに包まれた。1994年5月5日に行われたセナの葬儀には20万人以上のブラジル国民が訪れたと言われている。
葬儀の様子はテレビで放映され、数多のファンがそれを目にした。
葬儀はサンパウロで行われ、エマーソン・フィッティパルディやクリスチャン・フィッティパルディ、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガーなどのかつての仲間たちが参列した。
セナの死後、姉のビビアン・セナ・ラリがアイルトン・セナ財団を設立した。写真はモンテカルロで行われたセナを記念する展覧会の様子で、ビビアンとその家族がモナコのアルベール2世とともに写っている。
セナの圧倒的な功績のおかげで、セナの家族にもモータースポーツと深い縁ができている。弟のレオナルド・セナ・シルバ(写真)はアウディ・セナという会社を起業し、2004年までアウディの車を輸入する事業を行っていた。
ジャパン・ハウス・サンパウロの取材を受けたビビアンが語ったところでは、セナは常にブラジルの人の役に立ちたいと考えていたのだという。ビビアンが財団を設立したのもその遺志を継いでのことであり、財団はNPOとしてブラジルの若年層に優れた教育を提供することを目指している。
財団は毎年1800万人の学生を支援しており、ブラジル全国の700以上の自治体で6万5,000人の教育者に研修を提供している。
セナの公式サイト上で、ビビアンは「アイルトンはブラジルに対する熱い気持ちをいつも持っていました」と述べている。実際、セナのオーダーメイドのヘルメットはいつもブラジルの国旗の色である緑と黄色に塗られていた。
自らの名前を冠し遺志を継いだ財団や、世界中のスポーツファンの思い出の中で、セナの記憶は永遠に残り続けている。
セナは世界的なスターだった。あらゆる障害を乗り越え、挑戦を続けた偉大な英雄の記憶を胸に刻んでおこう。