日韓W杯で大活躍、ブラジル代表リバウドの歩み
ブラジルはこれまで優れたサッカー選手を数多く生み出してきたが、リバウドもまたその一人である。とりわけFCバルセロナでの活躍によって記憶されている現役時代と、引退後の歩みを振り返ってみよう。
リバウドはブラジル北東部、南大西洋岸の町レシフェの出身。1972年4月19日に生まれ、経済的にきわめて困窮した幼少時代を送った。
ティーンエイジャーだったときに、父を自動車事故で亡くすという悲劇を経験している。
そのような逆境にもかかわらず、リバウドはプロサッカー選手になる夢を実現させ、まずはパウスタリーノFCでプレーすると次にサンタクルスFCと契約し、その一年後にモジミリンECに移籍した。
それから間もなく、リバウドはブラジル国内のビッグクラブの注目を集めることになった。1993年にSCコリンチャンス・パウリスタに移籍し、1994年にはSEパルメイラスに移る。
SEパルメイラスに在籍していたとき、リバウドは初めてトロフィーを獲得する。1994年のカンピオナート・ブラジレイロ(ブラジルの全国選手権)で優勝し、1996年にはカンピオナート・パウリスタ(サンパウロ州の選手権)を制したのだ。
リバウドが初めてヨーロッパに乗り込んだのは、1996年のことだった。スペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャと契約を結んだのだ。デポルティーボでは1シーズンしかプレーしなかったが、サッカー情報サイト「Transfermarket」によるとリバウドは22ゴールを挙げており、チームのリーグ3位フィニッシュに大きく貢献した。
デポルティーボ・ラ・コルーニャでプレーするリバウドに目をつけたのが、FCバルセロナだった。2,350万ユーロを提示し、1997年に彼をチームに迎え入れる。
リバウドの才能はFCバルセロナで完全に花開いた。最初のシーズンから上々のスタートを切り、ラ・リーガでは19ゴールを挙げてFCバルセロナの優勝に大きく貢献、同年にチームはコパ・デル・レイでも優勝を果たし、二冠を達成したのだ。また、次の1998-99シーズンでもチームのリーグ連覇に貢献した。
この時期のリバウドは、世界最高峰のサッカー選手の一人だったといえる。その活躍は高い評価を受け、1999シーズンにはバロンドールとFIFA最優秀選手賞を受け取っている。
リバウドはFCバルセロナで通算130ゴールを挙げた。2001年のバレンシアCF戦で達成した『キャプテン翼』ばりのハットトリックもそこには含まれている。
2002年、リバウドは5年間プレーしたFCバルセロナを去り、ACミランで新たな冒険に乗り出した。
ACミランではあまり出場機会に恵まれなかった。それでも最初のシーズンで、UEFAチャンピオンズリーグとコッパ・イタリアの優勝を経験している。リバウドは2003年にACミランを退団し、ブラジルに戻ってクルゼイロECでプレーし始める。
ブラジルで短い期間プレーした後、2004年にリバウドはギリシャのクラブ、オリンピアコスFCに移籍する。
リバウドはギリシャの地で息を吹き返すような活躍を見せ、通算43ゴールを挙げてチームのリーグ3連覇に貢献した。
2007年、リバウドはオリンピアコスFCのライバルであるAEKアテネFCと契約を結ぶ。しかしこのチームではトロフィーを獲得できなかった。
リバウドはその後、ウズベキスタンのFCブニョドコル、ブラジルのいくつかのクラブ、アンゴラのカブスコルプSCP(Kabuscorp S.C.P.)に所属し、さらに多くのトロフィーを獲得した。
2014年に現役引退を発表したリバウドは、その頃低迷していたブラジルの古巣モジミリンECを救うために現役復帰を宣言、息子のリバウジーニョと揃って出場し、親子ともども得点を挙げた。
現役時代のリバウドは、ブラジル代表にとって不可欠な選手でもあった。
ブラジル代表ではいくつかのトロフィーを獲得したが、とりわけ2002年日韓ワールドカップにおける、ロナウド、ロナウジーニョ、ロベルト・カルロスらと並んでの活躍が印象的だ。この大会の後日譚としては、トルコ戦におけるリバウドのある行為がのちに悪質なシミュレーション(ファールされたふりをすること)と判断され、FIFAから罰金を科されるということがあった。
ブラジル代表としては、76試合に出場し、通算35ゴールを挙げた。
サッカー情報サイト「Transfermarkt」によると、リバウドは2008年にモジミリンECの会長となり、2015年間までその地位にあったという。のちに、同クラブ経営会議の顧問にもなっている。2014年、リバウドはモジリミンECを売却することに決め、投資家を募った。
2023年、リバウドはルーマニアのサッカークラブ「FCファルル・コンスタンツァ」の株主になって関係者たちを驚かせた。
リバウドは現在、サッカー賭博などを組織している「BetFair」などいくつかの企業でアンバサダーをつとめており、サッカー振興に忙しい日々を送っている。