女子テニス界の伝説、マルチナ・ヒンギスのキャリアを振り返る:最年少世界1位そしてテニスの殿堂入り!
スイスの女子テニス選手マルチナ・ヒンギスはユニークなキャリアを積んできた。純粋な成績だけで言えば上回る選手もいたが、その独特さは他にあまり例がない。そんなヒンギスのキャリアを振り返ってみよう。
マルチナ・ヒンギスの母親メラニー・モリターは娘の名前をチェコスロバキア出身の名選手マルチナ・ナブラチロワから採った。ヒンギスのその後の活躍を考えれば、決して名前負けしなかったと言えるだろう。
ヒンギスが最初にグランドスラムのタイトルを獲ったのは1996年のウィンブルドン、女子ダブルスだった。この優勝でヒンギスはオープン化以降最年少でのグランドスラム優勝記録を打ち立て、これはいまだに破られていない。
その後、わずか16歳6ヶ月で世界ランキング1位を達成。早熟な才能を世界に知らしめた。これほどの早咲きの天才は2度と出ないかもしれない。ちなみに、男子世界ランキング1位の最年少記録はカルロス・アルカラスの19歳4ヶ月だ。
ヒンギスは1997年から2001年にかけて、世界の女子アスリート中最多収入を誇っていた。多くのスポンサー契約や賞金を獲得したことによるもので、当時はセレブな文化的アイコンとしても認知されていた。
ヒンギスはシングルスだけでなく、ダブルスでも活躍した。1998年には4大大会すべてのダブルスで同一年度に優勝するという偉業を達成。才能の幅広さやチームプレー能力を感じさせる。
全英オープンでも優勝してはいたが、ヒンギスはハードコートやクレーの方を好んでいた。戦略的なプレースタイルにはペースが遅い方が向いていたからだ。ヒンギスの頭脳プレーがパワー頼みの選手を圧倒するシーンはよく見られた。
ヒンギスは趣味として乗馬をたしなんでおり、プロのテニス選手としてのプレッシャーから解放される安らぎを乗馬から得ていた。2014年には『デイリー・エクスプレス』紙にこう語っている:「プロとしてテニスの大きな試合をプレーしたあとはいつも、乗馬に行きます。馬に乗って郊外に繰り出すと、競技の喧噪やストレスから解放されるんです」
ヒンギスは2003年、22歳で引退した。怪我が続いたことが直接の原因とされていた。有識者の中には、テニスに求められる身体能力が上がり続けて手の負担となったという見解もあったが、単純にモチベーションを喪失したのではないかと勘ぐる向きもあった。本人は2004年、『ガーディアン』紙にこう語っている:「競技でベストな実力を発揮できている時はその波に乗ることができます。その期間の長さはそれぞれですが……人生における優先順位が変わって期間が短くなることもあります」
その後2005年に競技に復帰したものの、つらい時期が続いた。2007年には薬物検査で陽性反応が出たこともあり、再び引退となった。本人は薬物の使用を強行に否定、50万ドル以上を費やして処分に抗する法的手段をとったが結果はうまくいかなかった。
ヒンギスは90年代後半にはすでにスター選手となっていたが、オリンピックでのメダル獲得は2016年リオデジャネイロ・オリンピックが初となった。女子ダブルスでの銀メダルで、パートナーはスイスのティメア・バシンスキーだった。16歳でアトランタ・オリンピックに出場してから、紆余曲折あっての35歳での初メダルとなった。
ヒンギスは2013年にシングルスでの成績を評価されてテニス名誉の殿堂入りを果たした。しかもその後、ダブルスでの成績も評価されてそちらでも殿堂入りしている。名前のもととなったマルチナ・ナブラチロワもダブルスの強さに定評があったことを思えば、まさになるべくしてなったのかもしれない。