「水の王者」グラント・ハケットが歩んだ波乱万丈の半生とは

伝説の競泳選手、グラント・ハケット
オーストラリアの「水の王者」
スター選手にも苦労が
幼い頃から水泳を始める
若くして才能が開花
90年代後半から活躍
シドニーオリンピック
1500mの王者に
他の距離でも活躍
多くの記録も樹立
最初の挫折
メンタルヘルスの問題が
スランプに陥り、引退を決意
殺害予告に悩まされる
引退後に生活が荒む
競技に復帰
飛行機でのトラブル
失踪事件
罪滅ぼしへ
アスリートへの支援を訴える
穏やかな生活を取り戻す
伝説の競泳選手、グラント・ハケット

オーストラリア出身の競泳選手で、「水の王者」とも称されたグラント・ハケットを覚えておいでだろうか。

オーストラリアの「水の王者」

特に長距離を得意とし、1500メートルでは2000年と2004年のオリンピックで連覇を果たし、2008年にも銅メダルという素晴らしい記録を残している。

スター選手にも苦労が

これほどの成績を残せば当然だが、ハケットはオーストラリアを代表するスポーツ選手となっている。だが、その成功は同時に私生活の面での多大な苦労も呼んでしまった。ハケットのキャリアと人生、そしていまの生活をチェックしてみよう。

幼い頃から水泳を始める

ハケットは1980年5月9日生まれ。オーストラリアのクイーンズランド出身だ。父親のネヴィル・ハケットも優れた水泳選手だったこともあり、グラントもごく幼い頃から水泳を始めた。8歳の時には早くもクラブの大会に出場している。

若くして才能が開花

10代になると、水泳に熱心なことで知られるサウスポート・スクールに入学。めきめきと頭角を表していく。生まれ持った才能を熱心な練習で開花させ、同世代からも抜きん出ていき、すでに将来の活躍を予感させる存在となっていった。

90年代後半から活躍

そうして培った才能が発揮され始めたのは1990年代後半のこと。長距離自由形で他の選手を寄せ付けない圧倒的な強さを見せ、いくつもの記録を達成した。この成長の背景には、コーチのデニス・コトレルのもとでのたゆまぬ努力があった。

シドニーオリンピック

2000年のシドニーオリンピックでついにハケットの名前が(少なくともオーストラリアの)お茶の間に知れ渡った。1500m自由形で金メダルを手にしたのみならず、4x200mフリーリレーでも金メダルの獲得に貢献。さらに400m自由形でもあと一歩で金メダルまで迫った。

1500mの王者に

以降もオリンピックをはじめとする各種国際大会で活躍を続け、1998年から2005年の間は1500m自由形では負け知らず、世界選手権やオリンピックで金メダルを総なめにした。

他の距離でも活躍

400mや800mでも好成績を残し、複数の世界選手権で金メダルを獲得したほか、オリンピックでも銀メダルを手にしている。

多くの記録も樹立

数多くの記録も残しており、200、400、800、1500m自由形で新記録を樹立している。

最初の挫折

そんなハケットのキャリアに翳りが見え始めたのが2008年の北京オリンピックだった。無敗を誇っていた1500m自由形でチュニジアの選手ウサマ・メルリに届かず銀メダルに終わったのだ。もし勝てていれば、男子水泳選手初の同一種目での三連覇となるはずだったのだが。

メンタルヘルスの問題が

ハケットはこの敗北を重く受け止め、不安に苛まれ気分が落ち込むように。その結果、それまで20年間絶やさず抱き続けていた水泳への熱意も失われてしまう。

スランプに陥り、引退を決意

ハケットはのちの2015年にこの時のことを振り返ってこう語っている:「かなりの間、水泳のことが憎くなりました。バスタブに浸かるのも怖かったくらいです」『デイリー・メール』紙が伝えている。結局、ハケットは水泳から引退してしまったばかりか、さらなる苦難が待ち受けていた。

殺害予告に悩まされる

その頃から、ハケットは殺害予告に悩まされるようになっていた。なんでもその発信者は裏社会の住人と考えられており、そのせいでハケットは眠れなくなり睡眠薬に頼るようになったのだという。2015年にハケットの父が『デイリー・テレグラフ』紙に語っている。

引退後に生活が荒む

引退して以降、ハケットは奇矯な行動が目立つようになり、2012年には酔った勢いで当時の妻キャンディス・アリーと住んでいた高級アパートを破壊したこともあった。2014年にはメルボルンのカジノ周辺を下着姿で歩く錯乱した姿を写真に撮られている。

競技に復帰

だが、2015年には競技への情熱を取り戻したらしく、当時34歳だったハケットは短期間の集中トレーニングを行なって世界選手権に向けて調整、出場を果たした。結果は4x200mフリーリレーで銅メダルと、それまでの空白期間を考えれば立派なものだった。

飛行機でのトラブル

だが、ハケットの苦難は終わらず、さらなるトラブルを招いてしまう。2016年、アデレードからメルボルンに向かう早朝のフライトでハケットが別の乗客と揉め事を起こし、相手はハケットに「乳首をねじられた」と主張。ハケットはひどく酔っ払っていたため、事件の記憶はまったくなかったのだという。『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙が報じている。

失踪事件

さらに、2017年初頭には兄夫婦の家で揉め事を起こしたあと、一時的に行方がわからなくなり警察に捜索願が出された。数時間後には見つかって保護されたが、生活がうまくいっていないことが露わになった事件だった。

罪滅ぼしへ

だが、こうした事態を受けてハケットはついに罪滅ぼしを始めることを決意。自身が問題を抱えていることを公式に認め、それに対処していくことを決めた。そして、プロの助けを得ながらリハビリプログラムに参加、自身の抱える問題に向き合った。

アスリートへの支援を訴える

こうして自身の問題に向き合ったハケットは、同時にスポーツ界におけるメンタルヘルスの問題の啓発活動も始め、現役中や引退後のアスリートに対するサポートの拡充を訴えた。さらにはメンタルヘルスの問題につきまとう偏見の払拭に尽力し、必要な時には積極的に助けを求めるようアスリートに促してもいる。

穏やかな生活を取り戻す

こうして、ようやくハケットは穏やかな生活を取り戻したようだ。2020年にはシャーレーン・フレッチャーと結婚し2人の子どもも誕生、前妻キャンディス・アリーとのあいだの2人の子どもと合わせて4児の父として、いつになく幸せそうにしている。

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