53歳で死去した現代スケートボードの伝説、ジェイ・アダムズ

伝説的スケートボーダー、ジェイ・アダムズ
60年代、ベニスビーチ
荒くれた地区
カリフォルニアのサーフィン・シーン
サーフィン文化の揺りかご
天性のサーファー
サーフショップ「ゼファー」
海から陸へ
水のないプールの有効活用
Z-Boysの面々
Z-Boysは数年で解散
Z-Boysのアンチ・ヒーロー
ジェイ・アダムズの犯罪歴
サーフ・スケボー文化への愛
『ロード・オブ・ドッグタウン』
Z-Boysのドキュメンタリー
人生最後のライディング
伝説的スケートボーダー、ジェイ・アダムズ

1961年2月3日、カリフォルニア州ロサンゼルスでジェイ・アダムズは生まれた。のちに彼は、そのユニークなスケートスタイルと人騒がせなキャラクターで、世界で最も名を知られるスケートボーダーになる。

60年代、ベニスビーチ

ジェイ・アダムズが育ったのはベニスビーチ(Venice Beach)。ロサンゼルスの西に位置するこの地区は当時、サーフ・スケート文化が幅をきかせ、パンク・ロックがシーンを席巻しつつあった。1960年代のベニスビーチと現在のベニスビーチを比べてみると、その対照はいっそう際立つ。

荒くれた地区

1960年代後半、ベニスビーチは混とんとした地区だった。地元ギャング団やヒッピーが入り交じって街をうろつき、騒がしいサーフ・パンクのシーンが生み出されていった。地元の人々のあいだでは、その地区はしばしば「ゲットー・バイ・ザ・シー(海に面したゲットー)」と呼ばれていた。

カリフォルニアのサーフィン・シーン

当時もっとも革新的なサーフィン・アイコンたちを生み出したのが、カリフォルニア州南部だった。ケンプ・オーバーグ(Kemp Aaberg)、ランス・カーソン(Lance Carson)、フィル・エドワーズ(Phil Edwards)、ミッキー・ドラ(Mickey Dora)といった面々をはじめ、並みいる有名サーファーがカリフォルニアのサーフィン・シーンの先駆けとなっていた。

サーフィン文化の揺りかご

ジェイ・アダムズが育ったのは、だれもがサーフボードやスケートボードに触れるような環境だった。4歳のとき、ジェイ・アダムズは初めてのサーフボードを義理の父親に買ってもらう。

天性のサーファー

生まれ持った才能は、ユニークなサーフィン・スタイルとして開花し、まだ10代前半のうちから豊かな実りをもたらすことになる。子どもの頃からジェイ・アダムズは、サーフィンで稼ぎをあげ、周囲から「グロム(若手の有能サーファー)」として一目置かれていた。

サーフショップ「ゼファー」

ジェイ・アダムズと友人のトニー・アルバ、ステイシー・ペラルタはサーフショップ「ゼファー」で日がな一日すごしていた。店主のジェフ・ホーとスキップ・イングロム、クレイグ・ステシックは彼らのボーディングの才能を認め、やがて若きチームをバックアップするようになる。

海から陸へ

1970年代、カリフォルニアの南風の吹き方が穏やかになって海に大きな波が立たなくなったらしく、スケートボードに追い風が吹いたとか。この新しいスポーツは、舗装道路の波に乗って存在感を増していく。

水のないプールの有効活用

サーフィン雑誌『The Inertia』のMark Stansburyの記事によると、1976年から1977年にかけてカリフォルニア南部では深刻な日照りが続き、どこの家もプールの水を抜くことになったという。若きスケボーチーム「Z-Boys」(ZはゼファーのZ)は、こっそりとフェンスを越えてプールに入り込み、そのボウルのような斜面を乗りこなしたのだ。

 

 

Z-Boysの面々

Z-Boysは1973年に結成されたグループで、ベニスビーチの若いサーファー/スケートボーダーたちから成っていた。ネイサン・プラット、ジェイ・アダムズ、トニー・アルバ、ステイシー・ペラルタ、アレン・サーロ、クリス・ケーヒルが初期メンバーである。

 

 

Z-Boysは数年で解散

Z-Boysが有名になると、さまざまな企業が先を争うようにしてチームメンバーそれぞれに個別のスポンサー契約をもちかけ、結果、1977年になるころにはZ-Boys所属のメンバーはいなくなる。トニー・アルバ、ステイシー・ペラルタの二人はそれぞれ自身のブランドを立ち上げ、その後も輝かしいスケボー・キャリアを築いていった。

 

 

Z-Boysのアンチ・ヒーロー

ジェイ・アダムズはサーファーとして、そしてスケートボーダーとして当時おそらく最高レベルの才能を誇っていたが、アンチ・ヒーローとしての道を選んだのか、そのキャリアはあらぬ方向へ逸れていった。

ジェイ・アダムズの犯罪歴

アメリカのアウトドア誌『Outside』のMatt Higginsの記事によると、1982年、アダムズはハリウッドの盛場でゲイのカップルをからかって暴行沙汰になり、結果6ヶ月の刑期をつとめた。また1990年代半ば、一年半のあいだに相次ぐ家族の死(父母、祖母、兄弟の死)を経験したアダムズは、その悲しみをやり過ごすため、麻薬の注射にも手を出す。

サーフ・スケボー文化への愛

晩年、ジェイ・アダムズとトニー・アルバは再び集い、「Z-Flex」を結成する。スケートボードのオールド・スクール(旧派)とニュー・スクール(新派)を橋渡しする、いわば中間派スケボー・ブランドである。晩年のアダムズは個人的な戒律として、日々のスケーティングとサーフィンを欠かさなかった。

『ロード・オブ・ドッグタウン』

ステイシー・ペラルタは、2005年の映画『ロード・オブ・ドッグタウン』の脚本をとる。Z-Boysの活躍をえがいた伝記的な映画だ。ジェイ・アダムズの役をエミール・ハーシュが演じている。

Z-Boysのドキュメンタリー

ドキュメンタリー映画『Dogtown and Z-Boys』は2001年に公開された。この映画は、若き日のジェイ・アダムズがくぐり抜けなければならなかった数多の苦難に光を当てている。

人生最後のライディング

『ロサンゼルス・タイムズ』紙によると、2014年8月15日金曜日、ジェイ・アダムズはサーフィン休暇でメキシコのプエルト・エスコンディートにいたところ、おそらくは心臓発作に襲われて53歳で没した。休暇を共にしていたアレン・サーロの話によると、木曜の晩からアダムは具合が悪かったが、翌朝ベッドで寝ているときに急に息が苦しくなり、運ばれた先の病院で死亡が確認されたという。その死のあとも、ジェイ・アダムズが打ち立てたスタイルは途絶えることなくさまざまな形で発展し、今の世代にもその影響がうかがえる。

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