米バスケ史上最高のコーチ、フィル・ジャクソンがニックスの球団社長に
NBA(北米プロバスケットリーグ)史上最高のコーチとして知られるフィル・ジャクソンが、ニューヨーク・ニックスの球団社長に就任した。『ニューヨーク・ポスト』紙によれば、契約期間は5年間だと伝えている。
「AFPBB News」によれば、ジャクソンは3年前に引退会見を行った際に、将来的にNBAでふたたびコーチをすることはないと明言していた。だが、クラブのフロント入閣の可能性についてはコメントはしていなかったという。
ジャクソンは20年にわたり米バスケットボール界のトップチームで指揮を執ってきた名将で、今回初めてフロント職に就くことになる。今回はそんなジャクソンの輝かしいキャリアを振り返ってみよう。
ジャクソンは禅導師を意味する「ゼン・マスター」のニックネームをもつ。禅の教えをバスケットの指導に取り入れていたからだ。
NBAの名コーチとしての地位を確立する以前、ジャックスは1967年から1978年まで選手としてコートに立っていた。ニューヨーク・ニックスをはじめとしたさまざまな名門で、強力なパワーフォワードとして活躍していた。
ジャクソンの在籍中、ニューヨーク・ニックスはクラブ史上初めてNBAリーグの決勝に進出、1970年と1973年にはみごと優勝を果たした。ニューヨーク・ニックスのクラブ史上、リーグを制覇したのはこの2回のみとなっている。
1980年にニュージャージー・ネッツで選手としてのキャリアを終えたジャクソンは、MBAよりも格下にあたるCBA(Continental Basketball Association)やプエルトリコのバロンセスト・スぺイリア・ナシオナルでコーチとして指導を始めた。
CBAのオールバニ・パトルーンズの監督として、1984年にCBAチャンピオンシップを制したジャクソン。1985年にはリーグの最優秀監督賞を獲得し、その手腕が世間に知られ始めるようになった。
CBAコーチとして成功を収めたものの、NBAコーチ就任の壁はきわめて高く、何度も不採用の通知を受け取ることになった。しかし最終的に、シカゴ・ブルズでコーチの座を手に入れることに成功。ブルズで活躍するダグ・コリンズ監督のアシスタントコーチとして採用されることが決まったのだ。
当時のブルズにはマイケル・ジョーダンという“バスケットの神様”がいた。ジョーダンと一緒に仕事をすることは、ジャクソンにとってかなり刺激的な経験であったにちがいない。
ダグ・コリンズ監督率いるシカゴ・ブルズは年々成績を上げていたが、プレイオフで2年連続デトロイト・ピストンズに敗北を喫してしまった。それを受けて1989年にコリンズ監督が解雇され、アシスタントコーチだったジャクソンが正監督に抜擢された。
ジャクソンが監督に就任する前のブルズは、攻撃面でマイケル・ジョーダン一人に頼っていたためデトロイト・ピストンズのようなディフェンス力の高いチームを苦手としていた。新監督ジャクソンはトライアングル・オフェンスと呼ばれるオフェンスシステムを導入し、幅広いバリエーションで効率的に得点を挙げるようにしていった。
ジャクソンはシカゴ・ブルズで監督を務めた9シーズン中に、6つのNBAタイトルを獲得し、3連覇を2度にわたって達成するという前代未聞の偉業を成し遂げた。
スター選手のマイケル・ジョーダンが野球選手になることを目指して戦列を抜けている間も、シカゴ・ブルズは毎シーズンプレーオフに進出。ジャクソン率いるチームが優勝を逃したのは、9年間でわずか3回のみだった。
そうした功績が認められて1996年にNBA最優秀監督賞を受賞、1992年と1996年の2度にわたってNBAオールスターゲームに選出された。
しかし、シカゴ・ブルズのジェネラルマネージャーであるジェリー・クラウスは、自分の努力が過小評価され、全てがジャクソン監督とチームの手柄にされていることに大きな不満を抱えていた。
WEBサイト『barstoolsports.com』によれば、マイケル・ジョーダンがこうコメントしていたという:「ジェリーは(1997-1998年の)シーズン前に、たとえ82勝0敗でもフィル・ジャクソンの監督続投はないと言っていたよ」
こうしてジャクソンはシカゴ・ブルズをやむなく退任することになった。1年間の休養をとった後、ロサンゼルス・レイカーズの監督に就任した。
新監督ジャクソンとロサンゼルス・レイカーズは、やがてNBA史上最高と称されるようになるデュオ、シャキール・オニールとコービー・ブライアントを世に送り出すことになった。
史上最強デュオの活躍のおかげで、ロサンゼルス・レイカーズは2000年から2002年にかけて3連覇を達成した。ジャクソンにとっては3度目の3連覇で、9度目の優勝となった。
2002年にリーグ制覇を成し遂げたものの、シャキール・オニールとコービー・ブライアントの間に不協和音が生じたことで、レイカーズは2003年と2004年に連続で優勝を逃してしまった。2004年の決勝でデトロイト・ピストンズに敗れると、ジャクソンはレイカーズの監督の座を退くことを決断。
しか1年後の2005年、レイカーズのルディ・トムヤノビッチ監督が健康上の理由により辞任したことから、監督の座に復帰して周囲を驚かせた。
ジャクソンがふたたび監督の座に着いた時にはすでにシャキール・オニールはレイカーズを去っていたが、コービー・ブライアントとスペイン出身のパウ・ガソルを中心にしたチームが再構成され、2009年と2010年のリーグ優勝を果たした。これにより、ジャクソンは監督としてNBA史上最高となる11回目のリーグ優勝を収めるという快挙を達成した。
長きに渡って世界で最も過酷なバスケットボールリーグを支配してきたフィル・ジャクソン。フロント職として、新たな手腕に大きな期待が寄せられている。
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