若かりし日のイニエスタがレアル・マドリードと契約しなかった理由とは
元スペイン代表アンドレス・イニエスタはサッカー界を代表する選手であり、FCバルセロナそして代表チームのレジェンドでもある。だが、もし彼が2006年にレアル・マドリードに入団していたら、そのキャリアは今とはまったく違うものになっていたかもしれない。
UAEのスポーツチャンネル「アブダビ・スポーツ」が行ったインタビューでイニエスタは過去を振り返り、22歳の頃、レアル・マドリードと契約を交わす可能性があったことを明かした。
アンドレス・イニエスタは12歳の時に、レアル・マドリードへの入団を断りFCバルセロナの育成機関であるカンテラを選んでいた。このとき彼に大きな影響を与えたのが、当時バルセロナでトップチームの監督を務めていたルイス・ファン・ハールだ。
イニエスタ自身がインタビューで語っているように、オランダ出身のルイス・ファン・ハール監督は若手選手を奮い立たせるすべを心得ており、イニエスタだけではなくカルラス・プジョルやビクトル・バルデスもFCバルセロナに入団させている。
ラ・マンチャ地方の実家をあとにしてカンテラ入りしたイニエスタはやがてトップチームに加わり、サッカー史上稀に見るミッドフィルダーとして才能を開花させた。順調満帆に見えたが、2006年夏、FCバルセロナとの契約更新交渉が暗礁に乗り上げてしまった。
当時、レアル・マドリードは高額移籍金を支払って各国のスター選手を集め、「銀河系軍団」と呼ばれていた。しかしこうした戦略にほころびが出始め、2006年にフロレンティーノ・ペレス会長が辞任。新たな会長を決める選挙が行われていた。
会長後任候補の中でもっとも有力な一人とみられていたのが、時計ブランド「ビセロイ(Viceroy)」のオーナーであり、堅実かつ明確な計画を打ち出したフアン・パラシオスだった。
フアン・パラシオスは優秀な国内選手の補充に力を入れており、すでにホアキン・サンチェス、ホセ・アントニオ・レジェス、パブロ・イバニェス等の有力選手と契約を交わしていた。しかし、最後を冠するスター選手が欠けていた。それがアンドレス・イニエスタだったのだ。
会長選挙の前日、フアン・パラシオスはアンドレス・イニエスタからレアル・マドリードへの移籍の約束を取り付けたと大々的に発表し、周囲を驚かせた。元スペイン代表監督ホセ・アントニオ・カマーチョの仲介もあったという。
フアン・パラシオスはイニエスタには多額の報酬を、FCバルセロナには移籍金6,000万ユーロを払う準備があるとした。
だが、イニエスタ獲得という切り札をもってしてもレアル・マドリード会長選を制するには十分ではなかったようだ。最終的にもう一人の候補者ラモン・カルデロンが8,344票を獲得(全体の29.81%)し、フアン・パラシオスはわずかに下回る8,098票(全体の28.93%)におわった。
これにより、フロレンティーノ・ペレス会長時代にフィーゴがFCバルセロナからレアル・マドリードに移籍したような、アンドレス・イニエスタの「禁断の移籍」は立ち消えになった。これが実現していたら、FCバルセロナのファンには計り知れない打撃を与えていたことだろう。
このとき、セビージャ出身の故ホセ・アントニオ・レジェスはレアル・マドリードに入団したが、ほかの有力選手ホアキン・サンチェスやパブロ・イバニェスは最終的に契約には至らなかった。
レアル・マドリードの新会長ラモン・カルデロンはセスク・ファブレガス、アリエン・ロッベン、カカの獲得を公約していたが、実際に契約を交わしたのはロッベンだけとなった。なお、ファブレガスとカカは数年後にレアル・マドリードに加わっている。
いまから考えれば、アンドレス・イニエスタがキャリアの最盛期をレアル・マドリードに捧げることに同意したとは考えにくい。だが、もしも移籍が行われたらスペインサッカーがどうなっていたか、想像するのも一興といえるだろう。