表彰台から刑務所へ:元五輪金メダリスト、マリオン・ジョーンズの成功と挫折
2000年のシドニー五輪で3つの金メダルを獲得した元陸上競技選手のマリオン・ジョーンズ。さらに、プロバスケットボールの選手としても活躍していた。
ジョーンズのキャリアはドーピングと共にあった。最終的にPED(運動能力強化薬物)の使用を自己申告したことで、オリンピックのメダルはすべて剥奪された。
今回は、マルチスポーツ選手として活躍し、挫折したジョーンズの生い立ちを振り返ってみよう。
1975年10月12日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれたジョーンズ。幼い頃から有望な陸上競技選手だったので、最高のハイスクールチームで競うことができるよう家族は引っ越しを決意した。
12歳になる頃には、ジョーンズはトラック競技で国際的な活躍をするようになる。1992年に韓国で開催された世界ジュニア選手権では、4×100mリレーで銀メダルを獲得した。
陸上競技で輝かしい成功をおさめるも、ジョーンズはバスケットボールに転向し、1993年のカリフォルニア州ディビジョン1で年間最優秀選手賞を受賞した。そして、ノースカロライナ大学にバスケットボールの全額奨学金生として入学する。
goheels.comによれば、ジョーンズはノースカロライナ大学で輝かしいキャリアを積み重ね、3シーズンで平均16.8ポイントを記録し、1994年には全国タイトルを獲得した。
1997年にノースカロライナ大学を卒業したジョーンズは、再び陸上競技に専念する。1997年の世界陸上競技選手権大会の100mと4×100mリレーで2つの金メダルを獲得した。1999 年の世界陸上では4つのタイトルに挑戦し、100mで金メダルを獲得。
ng.opera.newsによれば、ジョーンズは2000年のシドニーオリンピックで、陸上競技の女性選手として初となる5つのメダルを獲得し、アメリカ陸上界の「金の卵」となった。
女子100m、200m、4×400mリレーで金メダルを獲得したジョーンズ。走幅跳びと 4×100mリレーでも銅メダルを獲得した。
キャリアの大半を通じて、ジョーンズは運動能力向上薬物の服用を疑われていた。2003年、連邦政府がベイエリア研究所協同組合を調査したことで、バルコの創設者ビクター・コンテとジョーンズの元夫のC.J.ハンターによる彼女への薬物提供の疑惑が浮上した。
ジョーンズは、2000年のオリンピック前とオリンピック期間中に禁止薬物を摂取していた疑惑をもたれた。彼女はこれまでのキャリアで一度も薬物検査で問題が起きたことがないことを理由に、疑惑を否定していた。
2006年、ジョーンズは禁止薬物の陽性反応を示したが、その後の再検査で陰性となった。1年後、連邦政府がドーピングの調査を行った際に、ステロイドホルモン剤の使用を否定したことで偽証罪の有罪判決が下された。
ジョーンズが2000年にステロイドホルモン剤を摂取してパフォーマンスを向上させたことを認めたため、国際陸上競技連盟は2000年9月以降の彼女の記録をすべて正式に抹消した。
1か月後の2007年12月、国際オリンピック委員会はジョーンズがシドニーオリンピックで獲得した5つのメダルを剥奪した。
『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、ジョーンズはこうコメントしている:「大変恥ずかしいことですが、私は皆さまの前に立ち、皆さまの信頼を裏切ったことをお伝えします。私は皆さまを失望させました。国を失望させました。そして、私自身をも失望させたのです」
2008年1月、ジョーンズは、ステロイドホルモン剤の使用と小切手詐欺に関する捜査での偽証罪で禁固6か月の判決が下された。
2008年3月7日からフォートワースにあるカーズウェル連邦刑務所で6か月を過ごしたジョーンズは、2008年9月5日に釈放された。
刑務所から釈放された後、ジョーンズはバスケットボール界に復帰することを決めた。2010年にWNBAのタルサ・ショックと契約を結ぶ。
Basketball-reference.comによると、ジョーンズはWNBAでの47試合で、平均2.6ポイント、1.3リバウンド、0.5アシストの結果しか残せなかった。
sportscasting.comによれば、ジョーンズは現在、テキサス州に住んでいる。自営業を営む傍ら、オースティンのワークアウトプログラム「キャンプ・グラディエーター」のパーソナルトレーナーも務めている。