82歳で死去した”サッカーの王様”ペレ、写真でたどるその人生

ペレの死去
病との闘い
化学療法が効かない
巨星との別れ
ブラジルが生んだサッカー・キング
ミナスジェライス州出身
ド・ナシメント家の成り立ち
ペレがサッカーを覚えたころ
サントスFCへの移籍
「この子は大成するぞ」
若きペレの華々しい成功
勝利者ペレ
1000ゴール達成
ワールドカップの思い出
対ウェールズ戦の最年少記録
「10」:象徴的な背番号
1958年スウェーデン大会
1962年チリ大会
1970年メキシコ大会
アメリカに渡ったペレの目標
歴史的な引退試合
文句なしに最高の選手
映画の中のペレ
「成功するなんて考えたこともなかった」
ブラジルは今でもサッカー大国?
W杯初優勝50周年記念
ペレの私生活
ペレの死去

「サッカーの王様」の名で親しまれた往年のサッカー選手、ペレが2022年12月29日にこの世を去った。82歳。今回はサッカー界に数々の記録を打ち立てたレジェンドの歩みを振り返りたい。

病との闘い

2021年9月、ブラジル生まれの偉大なサッカー選手ペレは、結腸がんと診断された。以来、ブラジルの国民的スターは化学療法を受けていた。

化学療法が効かない

2022年11月下旬、ブラジルの日刊紙『Folha de São Paulo』は、ペレが呼吸器感染症のため、サンパウロのイスラエリタ・アルベルト・アインシュタイン病院に入院したと報じた。さらに、化学療法では思うような結果が得られていないと記事は続けていた。

巨星との別れ

12月29日、終末期医療(EOL)を受けていたペレはその生を終えた。ブラジルのみならず世界のサッカーを刷新し、20世紀をつうじて最大の、そして最も愛されるスポーツ選手となったレジェンドに別れを告げるときが来たのだ。

ブラジルが生んだサッカー・キング

ブラジルのペレは、サッカー史上を代表する最も伝説的なプレイヤーの1人に数えられている。いまや世界中に名を馳せた彼だが、そもそもどのようにして20世紀最大のアスリートになったのだろう。

ミナスジェライス州出身

ペレの本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメント、1940年10月23日にブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生をうけた。

ド・ナシメント家の成り立ち

ペレの父親はジョアン・ラモス・ド・ナシメントといったが、彼自身サッカー選手で、「ドンジーニョ」の名のほうが通りがいい。ジョアンは妻、つまりペレの母親となるセレステ・アランテス・ド・ナシメントともども貧しい暮らしを送っていた。ペレが4才のとき、一家はサンパウロの後背地にあたるバウルの町に居を移した。

ペレがサッカーを覚えたころ

幼いペレにサッカーをすすめたのは父親だった。が、若き少年の才能を真の意味で見出したのはヴァルデマール・ヂ・ブリットである。元選手で引退後はコーチとして活動していた彼は、ペレを「クラブ・アトレティコ・バウル」にスカウトする。当時ペレはわずか11才、家族からはジッコの愛称で呼ばれていた。

サントスFCへの移籍

自身のチームにペレを加えてから数年ののち、少年のテクニックはもっと大きなチームでこそ発揮されるにふさわしいとブリットは考えた。サントスFCに連れて行くときが来たのだ。

「この子は大成するぞ」

1956年、ペレは16才の若さでサントスFCに入団する。サントスに到着するとヴァルデマール・ヂ・ブリットはチームに向かって言い放った、「この子は今に、世界最高のサッカー選手に化ける」と。彼の壮大な予言はクラブの公式サイトで紹介されている。

若きペレの華々しい成功

実際、ペレの名声がブラジル全土に響きわたるまでそれほど時間はかからなかった。彼は36ゴールを挙げ、カンピオナート・パウリスタ(サンパウロ州のサッカーリーグ)の得点王に輝いた。そこから活躍はとどまるところを知らなかった。ペレが積み上げたタイトルは数えきれない。

勝利者ペレ

1956年から1974年まで、ほぼ20年にわたって彼はサントスFCでプレーした。永遠の背番号「10」はその間、州選手権優勝に10度、ブラジルリーグ優勝に6度貢献し、のみならず2度のコパ・リベルタドーレス制覇と、2度のインターコンチネンタルカップ制覇を経験した。1962年と1963年、2年連続で世界クラブ王者になったわけだ。

写真:サントスのヴィラ・ベルミーロ・スタジアムにて(2014年)

1000ゴール達成

ペレが通算1000ゴールを達成したのも、サントスFC時代だった。1969年、リオデジャネイロのマラカナンスタジアムで行われた試合のペナルティキック。当時彼は29才だった。

ワールドカップの思い出

サントスに加入した数ヶ月後、彼はブラジル代表チームの招集を受け、1958年のW杯スウェーデン大会でもプレーした。当時のペレの17才という年齢は、W杯の最年少ゴール記録になっている。この記録は、2022年カタール大会でのスペイン代表ガビのゴール(18才)で再び注目されることになった。

対ウェールズ戦の最年少記録

W杯でのペレの初ゴールは、準々決勝のウェールズ戦だった。1958年スウェーデン大会では、彼はW杯最年少優勝記録も打ち立てた。

「10」:象徴的な背番号

興味深いことに、もはや代名詞となった背番号「10」を彼がつけたのはこのW杯のときであり、しかもそれはFIFAから割り当てられた番号だった。というのも、ブラジル代表チームのマネージャーがうっかり選手背番号を大会本部に連絡し忘れていたのだ。

1958年スウェーデン大会

1958年スウェーデン大会の優勝を皮切りに、ブラジル代表のいわゆる黄金時代が始まった。ブラジルはさらに1962年と1970年に優勝杯を獲得する。

1962年チリ大会

1962年のチリW杯、負傷したペレは最初の2試合しか出場できなかった。ペレ不在のチャンスをものにして大活躍を見せたのが、こちらもサッカー界のレジェンド、ガリンシャである。決勝の舞台、ブラジルはチェコを3-1で下す。

1970年メキシコ大会

1970年のメキシコW杯もブラジルの勝利で幕を閉じ、当時、3度のW杯優勝を経験した唯一の国となった。現役最後のW杯が終わるころには、ペレは大会最高のサッカー選手とみなされていた。

アメリカに渡ったペレの目標

ペレは1974年にサントスFCを離れ、米国に移住しニューヨーク・コスモスの選手としてプレーしはじめた。新天地での彼のゴールは、サッカーの楽しさをアメリカに伝道することだった。当時のアメリカでサッカーはさほど盛んではなかったのだ。

歴史的な引退試合

ベテラン選手の最後の試合は1977年に行われた。ニューヨーク・コスモス対サントスFCという歴史的マッチだった。

文句なしに最高の選手

国内外における数々の優勝に加えて、ペレはFIFAから「20世紀最優秀サッカー選手」に、国際オリンピック委員会から「20世紀最優秀アスリート」に選出された。

映画の中のペレ

ブラジルの社会と世界のサッカーにおけるペレの存在、その衰えることのない影響力は、彼にまつわる多くの映画やドキュメンタリーという形で不滅のものとなっている。今日に至るまでペレは世界中の人々を魅了し続けている。

写真はアメリカの大司教ジョン・カーベリーとペレ(1973年)

「成功するなんて考えたこともなかった」

ブラジルのテレビ局「CNNブラジル」の2020年のインタビューで、ペレは自分がビッグになれるとは思ってもみなかったと明かしている。「覚えているのは、父に連れられてバウルの駅からサンパウロに向かい、そこからサントスへ行ったこと。サントスでひたすら練習したんだ」

ブラジルは今でもサッカー大国?

ブラジルとサッカー、この二つが人々の心の中で分かち難く結びついているとしたら、それはやはりペレの力によるところが大きい。「今でもブラジルは世界に冠する偉大なサッカー王国だと言えますか」という質問にペレはこう答えている。「当たり前さ。見てごらんよ、どの国でもブラジル人選手がプレーしてるじゃないか」

W杯初優勝50周年記念

映っているのは、当時のブラジル大統領ルーラ・ダ・シルヴァとペレの姿。2008年に催された記念式典の一コマだ。この年はW杯初優勝の1958年から数えて50周年にあたる年だった。

ペレの私生活

ピッチの外では、ペレは3度の結婚を経験している。妻マルシアとは2016年に結婚し、亡くなる時まで連れ添った。

ほかのおすすめ