FIFAワールドカップで大活躍したものの、忘れられていった選手たち
良くも悪しくもサッカー選手たちの人生をがらりと変える舞台、それがFIFAワールドカップだ。ひとつひとつの試合が世界最大のショーケースとなり、そこで見せた発揮したプレーが大型契約につながることも、あるいは破談につながることもある。
今回は、ワールドカップで輝きを放ちながらも儚く消えていった選手たちを振り返ってみよう。
コロンビア代表のハメス・ロドリゲスは2014年ブラジル大会で6得点を挙げ、コロンビアを準々決勝まで導いた。代表チームはブラジル戦で敗退したものの、ハメスがW杯でみせた活躍はレアル・マドリードが移籍金8,000万ユーロで獲得を決めるのに十分なものだった。
レアル・マドリードでは最初のシーズンは期待に応える活躍をしたものの、その後は安定したポジションを得られずベンチスタートが続いた。2017年にバイエルン・ミュンヘンへ移籍し、2020年にはプレミア・リーグのエヴァートンFC、続いてカタールのアル・ライヤーンSCに移り、ギリシアリーグを経て2023年の夏からブラジルのサンパウロでプレーしている。
ローマ出身の左サイドバック、ファビオ・グロッソは2006年大会で歴史に残る記録を残した。対ドイツの準決勝では延長タイムに初ゴールを決め、イタリアを決勝へ導いた。対フランスの決勝も延長にもつれ込み、グロッソはPK戦で5人目のキッカーを任されてみごとに成功。イタリアに24年ぶりの優勝をもたらした。
その後、インテル・ミラノ、オリンピック・リヨン、ユヴェントスを渡り歩いたものの、輝きを取り戻すことができないまま2012年に現役を引退。代表の左サイドで世界を魅了したときの面影はどこへいったのだろう。
スペインが史上初のW杯優勝を決めた南アフリカ大会で、左サイドバックとして先発したカプデビラ。ワールドカップ予選から本大会までほぼ全試合に召集され、守備と攻撃の両面で多大な貢献をした。
しかし、その後は輝きを放つことなく代表の機会は減り、スペインのビジャレアルからポルトガルのベンフィカへ、続いてイングランドのノースイースト・ユナイテッド、ベルギーのリールセと移籍。結局、2011年から2017年にかけての出場機会はわずか71試合だった。
2014年のW杯ブラジル大会、ドイツは決勝まで上り詰めてアルゼンチンと対峙した。欧州と南米を代表する両チームは0-0のまま延長戦にもつれ込んだが、ゲッツェがみごと決勝点を決めドイツに悲願のW杯優勝をもたらした。しかし、その後目立った活躍はみられなかった。
ゲッツェは2013年にグアルディオラ率いるバイエルン・ミュンヘンと契約したものの大きな存在感を発揮できず、 2016年に古巣ボルシア・ドルトムントに復帰。2020年にPSCアイントホーフェンに移籍、2022年からはアイントラハト・フランクフルトでプレーしている。が、2022年カタール大会で待望の代表復帰を果たした。
カメルーン戦で5得点、スウェーデン戦で1得点を決め、ブルガリアのフリスト・ストイチコフと並び本大会におけるゴールデンシューズ賞(得点王)を獲得したロシアのFW。とりわけ1試合5得点はFIFAワールドカップにおける最多記録として、人々の記憶に刻まることになった。
アメリカ大会以降、バレンシア、レンジャーズ、イスタンブールスポル、コルドバ、ポゴニ・シュチェチンといった各国クラブで活躍。トルコのスーパーリーグ時代にはイスタンブールスポルで1シーズン最多11得点を挙げている。2001年に現役を引退した。
ファンタジックなプレーで日韓大会を圧倒したセネガル出身のディウフ。若干21歳ながら、各国選手をまるで自分より若手であるかのように翻弄し、母国を歴史的な準々決勝進出へと導いた。
W杯後にプレミア・リーグのリヴァプールに鳴り物入りで移籍。しかし新天地では3シーズンで3得点と振るわず、その後ボルトン、サンダーランド、ブラックバーン、レンジャーズ、ドンカスター、リーズと回った。
この年に代表デビューを果たしたスキラッチは7試合で6得点を記録する活躍で得点王となり、イタリアを3位に押し上げた。このとき以来、「トト」の愛称で呼ばれるようになる。
「トト」はさらに9回代表戦に召集されたものの、9試合で1ゴールと結果は振るわなかった。1992年にはユヴェントスからインテル・ミラノに移籍し、故障を抱えつつも3シーズンをつとめあげる。その後はJリーグのジュビロ磐田に移籍し、1997年に現役引退を発表した。
モロッコ出身でフランス国籍のストライカーは、この年のワールドカップで13得点を挙げるという前代未聞の記録を保持している。この記録は現在まで60 年以上にわたり誰にも破られていない。
フォンテーヌは所属先クラブ、スタッド・ドゥ・ランスでも1試合平均ほぼ 1 ゴールという恐るべき記録をもっていたが、次回以降のワールドカップに出場することはなかった。というのも、負傷が重なり、28歳の若さで現役を引退してしまったのだ。
ワールドカップ史上、もっともファンタジックなゴールの一つを決めたオワイラン。ベルギー戦でライバルチームの半数を置き去りにし、自陣からゴールまでの60メートル以上の距離を駆け上がりシュートを決めるという離れ業を披露したのだ。これは、1986年のワールドカップにおけるディエゴ・マラドーナの5人抜きゴールと並び称されている。
歴史に刻まれるゴールを決めたオワイランだが、大会における得点はこれだけだった。母国ではいっとき英雄になったものの、やがてキャリアも評判も下降線をたどっていった。