米バスケ界の伝説、アイバーソン選手のデビュー前秘話:17歳で冤罪に巻き込まれ、恩赦を受けてNBAへ

殿堂入りを果たしたアレン・アイバーソン
不当な有罪判決
ボーリング場での乱闘事件
黒人と白人の対立
関与を一貫して否定
知事の恩赦で放免
世間の敏感な反応
アフリカ系アメリカ人だけが逮捕
白人による人種差別的な侮辱行為
黒人に不利な裁判
映像記録はアイバーソンの無罪を証明
デモや集会、ときには暴動
窮地に立たされるアイバーソン
ジョージタウン大学に入学
2年後にNBA入りして貢献
殿堂入りを果たしたアレン・アイバーソン

90年代後半から2000年代前半にかけてNBAで活躍したスター選手の一人、アレン・アイバーソンをご存知だろうか。「小さな巨人」「THE ANSWER」という愛称で親しまれ、フィラデルフィア76ersの中心選手としてチームを牽引、2000-2001年シーズンのNBAファイナルに進出を果たした。歴代の名選手として語られ、殿堂入りまで果たしたアイバーソンだが、じつはプロになる前に思わぬ障壁が立ちはだかり、あわやNBA入りを逃すところだったという。いったい何があったのだろう?

不当な有罪判決

アイバーソンに立ちはだかった壁は、不当な有罪判決だった。1993年、当時17歳だった才能あふれるバスケットマンはバージニア州の法廷で不当に厳しい有罪判決を申し渡されたのである。乱闘に加わって女性に怪我を負わせたというのがおおよその罪状だった。これは、フィラデルフィア76ersにドラフト1位で指名される3年前の出来事である。

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ボーリング場での乱闘事件

事件は1993年2月14日、バージニア州ハンプトンのボーリング場で発生した。当時高校生だったアイバーソンは、高校の黒人の級友たちとボーリングに興じていたところ、そこに居合わせた若い白人グループとの間に乱闘が持ち上がったのである。この事件については、ドキュメンタリー映画『No crossover』(スティーヴ・ジェームズ監督、2010年)に詳しく描かれている。

 

黒人と白人の対立

アイバーソンの証言によると、その白人グループは人種差別が色濃く残ることで知られるバージニア州ポコソンから来ており、アイバーソンを含む黒人グループにちょっかいを出したという。口論は乱闘に発展し、白人の女性一人が負傷、アイバーソンと黒人の級友3人がのちに逮捕された。

関与を一貫して否定

逮捕されたアイバーソンは、事件への関与を一貫して否定するも、裁判で有罪を言い渡される。しかも、当時17歳で未成年だったにもかかわらず、事件の重大さに鑑みて成人扱いされ、懲役15年の実刑に処せられたのだ。

知事の恩赦で放免

だが幸運にも、アイバーソンは15年の刑期を勤め上げずに済んだ。事態を見かねたバージニア州知事が恩赦を出し、将来有望な黒人アスリートは刑務所生活を4ヶ月で切り上げることができたのである。ちなみに、この州知事はダグラス・ワイルダーといい、アフリカ系アメリカ人である。

世間の敏感な反応

アイバーソンが訴えられた裁判は、彼がすでに超高校級の有名アスリートだったこともあってメディアも詳しく取り上げ、世間も敏感に反応した。この一件が、地元警察や司法当局が将来有望な黒人アスリートをおとしめようとするものであることは、当時から多くの人が気づいていたのだ。議論が全米で盛り上がることによって、後述するように、のちに裁判のやり直しが行われた。

アフリカ系アメリカ人だけが逮捕

まず逮捕について不自然だったのは、アイバーソンとその他3人の級友、つまりアフリカ系アメリカ人だけが逮捕されたということだ。乱闘に関与した人物は白人たちも含めて大勢いたはずなのに、白人側は誰も逮捕されることなく、したがって裁判にもかけられなかったのである。

白人による人種差別的な侮辱行為

裁判でアイバーソンの側は、白人側から人種差別的な侮辱行為があり、その後乱闘になったと主張したが、検察側はそれを退け、乱闘の原因となるような侮辱行為はなかったとする白人側の主張を支持した。また、ボーリング場の従業員は、アイバーソンが乱闘の最中に椅子を振り回し、白人女性を怪我させたと証言した。

黒人に不利な裁判

この事件を裁いた裁判官は、黒人コミュニティから忌み嫌われている人物で、黒人被疑者に不利な判決を多数言い渡してきた実績があった。また、出廷した証人は一人のこらず白人だった。

映像記録はアイバーソンの無罪を証明

ところで、事件発生時のボーリング場の様子は防犯カメラに収められており、のちに公開されることになった。映像からわかるかぎり、喧嘩をふっかけたのは白人側で、しかも口論がヒートアップして本格的な乱闘が始まるまえに、危険を察知したアイバーソンがその場をあとにする様子もそこには収められていた。

デモや集会、ときには暴動

裁判が始まってから判決が言い渡されるまでの5ヶ月間、アフリカ系アメリカ人の権利を訴える多くの団体が、アレン・アイバーソンをはじめとする4人の黒人青年への連帯を訴え、デモや集会をさかんに組織し、ときには暴動さえ辞さなかった。

 

窮地に立たされるアイバーソン

いずれにしても、この時の有罪判決と収監はアイバーソンの夢を叩き潰してしまった。さる有名大学からの奨学金が取り消され、他の大学からのオファーも期待できないような状況に陥ってしまったのだ。彼の家庭は貧しく、奨学金がなければ大学進学はまず不可能だった。このままでは、大学でバスケットボールをすることはできない。しかし、彼の母親はまだ望みを捨てていなかった。

ジョージタウン大学に入学

アイバーソンの母親は、ジョージタウン大学のバスケ部に狙いをさだめ、ついにはジョン・トンプソン監督を説き伏せることに成功する。1994年に晴れて入学を許可されたアイバーソンは、その才能を遺憾無く発揮、ビッグ・イースト・カンファレンスの最優秀守備選手賞に2年連続で選ばれ、1995年には同カンファレンスの最優秀新人選手賞に選ばれた。その同年、裁判のやり直しが行われ、彼の有罪は取り消されたのである。

2年後にNBA入りして貢献

大学入学から2年後の1996年、卒業を待たずしてアイバーソンはNBA入りを果たす。彼はフィラデルフィア76ersのスター選手となり、2006年からはデンバー・ナゲッツ、デトロイト・ピストンズ、メンフィス・グリズリーズのユニフォームにも袖を通し、最後はトルコのベシクタシュJKで2011年に現役生活を終えたのである。

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