NBAの伝説、コービー・ブライアントにまつわる15の秘話
NBA史上に残る名プレイヤーのひとり、コービー・ブライアント。ロサンゼルス・レイカーズでの20年間にわたる大活躍に加え、ヘリの墜落事故という劇的な最期も相まって、多くの人々の記憶に残るレジェンドとなった。しかし、そんなコービーにもあまり知られていない秘話があるようだ。
コービーの名前の由来はフィラデルフィアにあった鉄板焼きレストラン「神戸ステーキハウス」だ。1998年に行われたインタビューの中で、コービーの父、ジョー・ブライアントは「こんなことを言うべきではないかもしれませんが、彼らは商標権を主張するかもしれません」と述べている。ちなみに、そのレストランはその後、閉店してしまったとか。
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スポーツ専門サイト「Sports Drop」によれば、子供時代のコービーはスラっとした体型を活かし、サッカーに取り組んでいたという。ポジションはゴールキーパー。成人後は2メートル近い身長になったことを考えれば、仮にサッカー選手になっていたとしても、かなりの活躍を見せていたかもしれない。
ブライアントは幼少期の8年間をイタリアで過ごしたため、イタリア語を流暢に話した。また、妻のヴァネッサがメキシコ系だったため、スペイン語も学んでいたそうだ。
子供のころはACミランのサポーターだったコービー・ブライアント。元サッカー選手のティエリ・アンリに対し、憧れの人はマルコ・ファン・バステンだったと語っている。結局、コービー自身はバスケットボール選手になったが、リオネル・メッシやロナウジーニョのファンでもあり、FCバルセロナに熱狂していたとか。
卒業記念ダンスパーティーのお相手は通常、同級生だ。ところが、高校時代のコービーはR&B歌手のブランディをリムジンに乗せて連れてきたというから驚きだ。ホテルのエントランスにはカメラマンが群がり、大騒ぎになったのは言うまでもない。
高校時代のコービーは「CHIEZAW」というラップグループを結成。グループ名は香港のカンフー映画『Kid with the Golden Arm』に登場するギャング集団、「チー・シャー」にちなんだものだ。
1999年、コービーのラップグループはソニー・エンターテインメントと契約。コービーはNBAですでに活躍していたため、ソニーとしてはその名声を利用したかったのだろう。2000年にはラッパーの50セントやナズ、タイラ・バンクスとコラボし、『ビジョンズ』というアルバムを制作したが、これはお蔵入りになってしまった。エンタメサイト「カルチャー・クリプト」によれば、その理由はラップのスタイルに関する意見の相違だったらしい。
コービーはファーストアルバムの制作中に後に妻となるヴァネッサ・レインと出会う。当時、ヴァネッサはヒップホップグループ「Tha Eastsidaz」のバックダンサーをしていたのだ。
ルーキー時代のコービーは自身の背番号として24を望んでいた。しかし、この番号はジョージ・マクラウドによってすでに使われていた。そこで、ユースバスケットボール・キャンプに出場した際に着用していた背番号143にちなんで8を選択することとなった。なぜ、8なのか? それは1+4+3=8だからだ。
コービーと大手スポーツ用品メーカーのコラボというと、ナイキが有名だろう。しかし、NBAデビュー直後のコービーは、実はアディダスと契約していたのだ。『スポーツ・イラストレイテッド』誌によれば、このスポンサーシップは1996年から2002年まで続き、「KB8」「KB 2」「The Kobe」「The Kobe Two」というコラボスニーカーが世に送り出されることになったそうだ。
子供時代のコービーにとって、憧れのバスケットボール選手はマイケル・ジョーダン…… ではなかった。イタリアで暮らしていたころ、マイク・ダントーニのプレーを目の当たりにしてファンになっていたのだ。その後、ダントーニはレイカーズでコービーのコーチを務めることに。
コービーと言えばNBAの花形というイメージがあるが、キャリア初期には控え選手としてベンチから出場しなければならない時期もあった。実際、1997-98シーズンにはシックスマン・オブ・ザ・イヤーの投票で2位になっている。当時、コービーの平均スコアは15.4点だった。
1990年代後半から2000年代にかけては、高校生がNBAに抜擢されるケースが増えていた時期だ。コービーも1996年のドラフトでシャーロット・ホーネッツから13位指名され、NBA史上初の高校生シュートガードとなった。ただし、コービーはその後、レイカーズへと移籍することになる。
実はコービーの父、ジョー・“ジェリービーン”・ブライアントもNBA選手だった。1975年のドラフトでゴールデンステート・ウォリアーズに1巡目指名された後、フィラデルフィア・セブンティシクサーズで4シーズンにわたってプレー。NBAファイナルにも1度出場している。
コービーは長年、NBA最大のレジェンド、マイケル・ジョーダンとプレーすることを望んでおり、一時はその夢が叶うかと思われた。2004年にフリーエージェントとなったことを受け、コービーはマイケルのもとでプレーすることを望んだのだ。しかし、ジョーダンは2003年にウィザーズのオーナー、エイブ・ポリンによって解雇されてしまい、指導者としてチームに残ることもできなかった。